01:宇都宮宿
・人口6457人、家数1219軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・下野国第一の都会と言われていた宿場があり、不動城と言われた宇都宮城かあった
・二荒山神社が下野国「一の宮」と言われていたことから訛って宇都宮となった説などがある

 宇都宮---地蔵前---海道町---稚児坂---白沢 10.6km
 2007年5月3日




 
 2007年5月3日、晴れ、9時50分、日光道中と奥州道中の分岐点に立った。1年前の5月4日に日光道中踏破に向けてこの地を通過したときのことが懐かしく思いだされる。あのエンジ色のビルの横を左に曲がって歩いていったんだっけな?と、奥州道中踏破に向けての最初のシャッターを押す。伝馬町の町並みを確認してから左手に移り、石塚本陣跡を探して進むと高札場跡があったが、肝心の石塚本陣跡は見つからなかった。代わりに、往時は観音様があり朝日が早くに射したといわれる朝日坂の標識がある。

 
 その先の都橋を渡り右手に曲がると町人町に入るのだが、その前に下野国一の宮である二荒山神社を見ておくことにして直進すると左手に鳥居が現れる。だが、残念なことに鳥居の周りは工事中であった。長い階段を上りきると境内の由緒書きには藤原秀郷公、源義家公、源頼朝公などの武将の尊崇を受けたことが記されている。また、境内の奥には俳聖蕪村の句碑「鶏は羽にはつねをうつの宮柱」がある。

 
 街道にもどり、右手に入ると左手に鉄砲町の標識が現れる。戦国時代に宇都宮氏が鉄砲鍛冶を住まわせていた所であると記されている。アーケード街の突き当たりを右手に曲がり暫く進み、車道を左手に折れるとその先に大手門跡の標識が現れる。

 
 アーケード街の突き当たりに戻り、左手に進み、新星堂の先を右手に折れて400m位進むと、復元された白壁と物見櫓が美しい宇都宮城が現れる。ボランティアのおじいさん達が観光客にいろいろ説明をしていたが、デジカメに納めるだけにして急いで宿場に戻った。

 
 賑やかなアーケード街となったの宿場内を進んでいくと、二荒山神社が正面から見える参道を横断していく。そしてファミリーマート横の曲尺手から一番町を通過し、大通りに出た所で左手に折れて進んでいくと、やがて田川に架かる幸橋にでる。往時は田川橋といい、宿場の出入り口だった所だ。

 
 橋を渡るといよいよ奥州道中に踏み出すことになる。最初の交差点を左に折れるのだが、その角に黒壁の大きな土蔵づくりの家が現れる。江戸時代から醤油醸造や肥料商を営んでいた旧篠原家の住宅であり、「宇都宮内で10本の指に入る豪商だった」とお爺さんが説明してくれた。

 
 旧篠原家住宅を後にすると車道を黙々と進むことになる。車道の左側の歩道を歩いていたら、横断歩道のマークの無いY字路に出た。横断してはいけないのかなと躊躇したが信号を待って横断していくと目の前が交番だった。大きな通りなのに、交番もあるのになぜ横断歩道のマークが無いのかと暫く疑問が頭を支配していた。車道を暫く進むとやがて竹林町に入るが、左手に白壁の門のような蔵のような岩淵さん方の建物が現れる。

 
 その先に進むと左手に小学校が現れるが、小学校の先を街道から外れて右手に入ると白山神社があり、その裏手には城普請の命令に従わなかったために処刑された根来組百人衆の胴塚があったというのだが見当たらなかった。また、街道に戻って暫く進むと右手に根来衆の首塚があり、宇都宮藩の刑場跡でもあったので地蔵堂があるとのことだったが、宅地化が進みこれも見当たらなかった。近くのバス亭が地蔵前となっていることと街道脇の松の木から昔を偲びつつ先に進むことにする。(地蔵堂は、ガイドブックでは右手にあると図示されいるが、百街道一歩さんのHPによるならば右の路地に入って、左手の建物の中にあるとのことだった)

 
 その先に進むと、ガイドブックでは両側に松並木があると記されているが、檜が所々にあるだけで並木といえるものは消失してしまっているようだ。そろそろ昼食にするために適当な木陰を探して歩いていたら、左手の寿造園の近くに木陰があったので、そこで昼食にし暫し休憩。街道に戻ると鯉のぼりが五月の空を泳いでいた。

 
 上海道町に入ると、車道の左手に専用の歩道が設けられていて、田植えと八重桜を見ながらの旅となり、気分爽快だ。専用歩道が終わると緩やかな上り坂となる。上りきった所で地図を見たらそこが稚児坂だった。写真を撮るために坂道を戻るか迷ったが左手の王子製紙の看板を写して稚児坂の代用としようと考えた。戻ることに億劫になってしまったが、やっぱり戻った方がよかったなと反省。なお、稚児坂とは源頼朝の命をうけ奥羽総奉行として東北に向かっていた伊沢家景がこの坂あたりで乳飲み子を病で亡くしたことに由来するのものである。

 
 稚児坂を後にして暫く進んで行くと、右手の郵便ポストの上に白澤宿の看板が現れる。「ここは江戸より三十里」と記されているが、天保国絵図によるならば一里塚はもっと手前にあったはずなので、一応の目安として記されているようだ。直ぐ近くにバス停があり「自治センター」と書いてある。後から地図を見たらそこは町役場と書いてあった。この先に進むといよいよ一つ目の宿である白沢宿だ。


(奥州道中10次) (02白沢宿)

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