08:越堀宿
・人口569人、家数113軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠11軒
・1646年、奥州道中の他の宿駅よりもかなり遅く解説された

 越堀---富士見峠---寺子---黒川---芦野 8.9km
 2007年10月7日




 
 橋を渡って突き当たりを右に折れ、往時の川岸からの上がり口を探して見たが民家が立ち並び、川に向かう小道など見当たらない。通行人もいないので聞くことも出来ず、しかたなく諦めて宿内を先に進むことにした。越堀宿は1635年、仙台の伊達侯が参勤交代で江戸に向かう途中、那珂川の増水で渡れず、ここに小屋を設けて水の引くのを待った。その小屋を中心にしてやがて町が開け、宿駅になったとのことである。

 
 先ほどの橋を渡った突き当たりの道を左へ進むと、左手に小さな食道があり、そこが本陣跡だというのだが、見つからないので仙台屋という店に入って本陣跡を尋ねる。すると店の主人が「右隣の家が本陣跡だが代が変わって違う人が住んでいる」と教えてくれた。お礼を行って隣の家を見に行って見ると、店としては閉まっているが「大洋食堂」と薄く書かれていた。早速、藤田本陣跡をデジカメに納めた。

 
 宿内を先に進むと右手に浄泉寺が現れる。境内に入って見ると右手に黒羽藩の領界石が保存されている。「従是川中東黒羽領」と刻まれており、その脇には、往時は越堀宿東の那珂川左岸に建てられていたものだとの解説が付いている。浄泉寺を後にして宿場の外れに来ると曲尺手があり、そこを通過して進むと右手に坂本屋の屋号がたっている。往時の旅籠の屋号かなとデジカメに納めて先に進む。

 
 街道は右に曲がり人気のない道となる。稲刈りが終わった田圃を眺めつつ杉渡土を通過する。ゆったりとした坂道を上っていくと富士見峠にでる。しかし、周りが雑木林となっているので振り返って見ても富士山は見えない。昔は本当に富士が見えたのだろうかと疑いながらデジカメに納める。

 
 まっすぐに延びた峠からの下り道を進んでいくと、「右手の寺子小学校前を過ぎ、すぐ左の角」に一里塚があるとガイドブックに書かれているので、そのつもりで右手を見て歩いていたら、いきなり寺子の一里塚が現れる。ガイドブックと違っているなと公園内に入って見てみる。小学校の跡地が公園となり、一里塚や富士見峠にあった馬頭観世音もここに移動したようだ。寺子の一里塚は江戸から42里を示すもので、現在地よりも50m先にあったが道路の拡張等で無くなってしまい、この地に復元したものであると解説されている。

 
 一里塚を後にして暫く進むと左手に会三寺が現れる。境内には80数体の木造地蔵像が納められている地蔵堂がある。1745年ごろ、はしかが流行して幼児の死亡が多かったことから寺の和尚が憐れんで111体の地蔵群を彫りあげ、その弟子がお堂に祀ったとのことである。そういえば昨年ごろ、東京地域でもはしかが流行したな?と思い出しつつ会三寺を後にする。寺を出て街道に戻ると、道は余笹川に向かってゆったりと下る坂道だった。

 
 ガイドブックの地図では左にカーブするはずなのだが余笹川までまっすぐ下っている。・・・どうやら道が改築されてしまったようだ。橋を渡った先には、道路の左に道があったので、たぶんこれが旧街道であろうと左手の道を歩く。(後で百街道一歩さんのHPを見たら、平成10年8月に死者がでる程の余笹川の大氾濫があって、その後に橋や道路の改修工事が行われたとのことだった。地図で確認したら橋の位置は東に移動したが旧街道は残っていたのだ。上の地図参照)新道と合流して暫く進むと右手に杉林が開けて来る。杉並木程ではないが街道の雰囲気が漂う石田坂の道だ。旧街道や杉林をデジカメに納めるのをケチってしまったことが悔やまれる。ここからは人気もなく、時々車が通る程度で、稲刈りが終わった田圃や周りの木々を眺めつつ黙々と街道を歩く。

 
 やがて黒川集落のY字路が現れる。右手の直進する道が旧街道だが、200mで川岸となる。が、そこには橋がないので川端の道を左に進み新道の黒川橋を渡る。往時の街道はほぼ直線的に黒川に架かる橋を渡り、そのまま山を上り、山向こうの夫婦石に通じていたのだが、今は橋も山を登る道も消えてしまっている。

 
 新道の坂道を上り左回りで山裾をぐるっと回り込むと田圃の向こうに鳥居が見えてくる。たぶん夫婦石だろうということで、稲刈りが終わり水気も無くなっている田圃の畦を歩いて近道させてもらった(しかし、部外者がかってに田圃を歩くのはいかがなものか。旅人は礼節を重んじなければならないと後から反省)。大きな石が二つに割れたこの夫婦石は鳥居付きの神社となっており、その横に由来が記してある。それによれば、戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割れ目に身を隠した。敵が近づくと二匹の白蛇が現れ石が動いたので敵が逃げたとのことから「見落石」と言われ、やがて「夫婦石」となったとのことである。「初春や誓いはかたき夫婦石」の句碑も立っている。

 
 夫婦石を後にして人気の無い街道を進むと、右手に夫婦石の一里塚が現れる。左手にも標識は出ていないが塚が残っており、左右が残っているので感激した。山の中なので開発から逃れられたのが良かったようだ。この一里塚は江戸から43里を示すもので、奥州街道は家光の代にほぼ完成したとの解説が付いている。

 
 芦野発のバスの時間が迫ってきたので山中の街道を急ぎ足で進んでいくと、街道は右にカーブし眺めが開け、緩い下り坂の先に芦野宿が見えてくる。芦野宿に入る途中の左手に芦野氏居館跡が現れるが、パスして芦野宿に入る。2分程度前になんとかバス亭に着いたがバスはやや遅れてきた。16:44発の最終バスに乗り黒田原駅へ、そこから黒磯駅へと行きホテル・トップスに泊まる。次の日の天気予報が外れることを期待したが、翌日は朝から雨、奥州道中の最終日が雨ではあまりにも悲しいので、帰宅して再挑戦することにする。


(07鍋掛宿) (09芦野宿)

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