03:氏家宿
・人口879人、家数235軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒
・宇都宮氏没落により家臣の平石氏、桶川氏などが氏家に住みつき後に宿を形成した
・江戸と奥州の物資の集散地として、また水戸から海魚も届き宿として繁昌した

 氏家---滝沢家住宅---一里塚跡---弥五郎坂---喜連川 7.8km
 2007年5月3日




 
 なだらかなのでよく分からない曲尺手を進み、信号のある氏家バイパスを越えるとその先の左手に本陣跡の平石氏宅がある。本陣跡の標識とかが見当たらないので近所の方に本陣跡かどうか尋ねて見たら、「本陣だった所で庭に石碑がある。お爺さんが訪ねて来る人によく話をしている」と教えてくれた。伺ってみたら「従是西 宇都宮」と彫られた境界石が立っている。いろいろ聞いて見たかったのだが留守のようで諦める。宿内を先に進むと古風な造りの店が現れる。

 
 その先の右手、奥に光明寺が現れる。境内に入ると一瞬ギョッとする。巨大な不動明王が屋根の上からこちらを睨んでいるのだ。その大きさに感心して眺めていたら、後から寺に入ってきた若者が信心深く参拝していた。デーパックを背負っていたので街道歩きの若者かなと思ったのだが、その後は一度も見かけなかった。

 
 宿内を先に進むと門つきの古風な家が左手に現れる。現代的な建物が多い家並みの中で街道筋の面影を残している貴重な建物だなと思えた。街道はその先の交差点を右折して喜連川へと向かうのだが、今日の旅はここまでにして交差点を左に入りホテル清水荘に向かう。ホテルは街道に近くて良かったが、コンビニが近くになく、翌日の昼飯や駄菓子を仕入れるために駅の反対側の国道沿いまで歩かなければならなかった。都会とは勝手が違うことを実感。

 
 5月4日、8時45分、ちょっと遅れて出発だ。喜連川宿に向かう上町の交差点の右手には、ガラス戸に覆われた変わった造りの店がある。その先に進むと左手には白河との物資輸送路として開かれた原方街道が現れる。氏家宿を後にして暫く進むと、左手に薬王寺という室町時代に創建された古刹が現れる。

 
 その先には土蔵の屋根に望楼を載せた蔵座敷と鉄竹堂とうい明治天皇が休憩した建物がある瀧澤家住宅が現れる。両方ともガイドブックには何故か登場して来ないのだが。先に進むと八幡神社が現れる。その先は、何もない車道をもくもくと歩く。

 
 やがて右手の民家の塀の上に「奥州街道一里塚」の掲示板が現れる。デジカメに納める為に民家・坂本氏宅の庭に入るとおばあさんがいたので許可をもらいシャッターを押した。庭木と祠と一里塚とが一体となっていてチョットはっきりしないが、日本橋から32里目を示す現存する一里塚であるとのことだ。

 
 その先に進むと道はY字路となるが、直進して進む。緩い坂道を上って行くと右手に早乙女坂古戦場の標識が現れ、階段上には宇都宮尚綱の供養塔がある。1549年9月、宇都宮尚綱軍と喜連川の塩谷軍とがこの地で戦い、塩谷氏援軍である那須氏の家臣・鮎瀬弥五郎の矢で宇都宮尚綱が倒れ、宇都宮軍は敗退した。これを聞いて喜連川の領民は早乙女坂を弥五郎坂と称するようになったとの解説がある。がしかし、階段の右横には、敵陣に切り込み討ち死にした尚綱の家臣である松尾弥五郎の墓であるという石碑が立っており、いまだ説が定まっていないようだ。初めてこういう謂われを知って、その地域毎にいろいろ歴史があるものなんだなと感心する。

 
 緩い上り坂の街道はやがて下り坂となり、左手に右を指した奥州街道の標識が現れる。ガイドブックにはない道を示しているので驚いたが、「平成17年2月9日指定」とあるので歩いて見ることにした。入り口は草で覆われているが道は舗装されていてしっかりしている。途中倒木があったり人気もないので、やや怖いが昼間なら大丈夫だと思える。暫く歩くとやがて民家のある集落を通過し、まっすぐな道を進んでいくと途中で十字路にでる。ガイドブックには無い、予想外の地形に驚き、立ちすくんでしまった。農作業でテーラに乗った農家の方が来たので聞くと、喜連川方面はこのまままっすぐに行き右折すればいいとのことだった。GPS地図を取り出して見たが解らず、不安なまま直進していく。

 
 やがて右折する道が現れたので一安心、葉桜となった枝垂れ桜の大木の所で街道は川沿いに右折しているのだった。川沿いの街道を300m位進むと左手に橋が現れる。この橋の袂の右手には「右江戸道、左下妻道」と刻まれた道標がある。この道標をカメラに納め、専用の歩道が付いた橋を渡る。その先は喜連川宿だ。


(02白沢宿) (04喜連川宿)

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