06:大田原宿
・人口1428人、家数245軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠42軒
・室町時代にこの地を支配していた大俵(たいひょう)氏が前室山に城を築き本拠とした
・この時、姓を大田原氏と改め、前室の地名も大田原に改めた
大田原---二本松---練貫---樋沢---鍋掛 11.8km
2007年5月4日、10月7日
交差点から200m位進むと左手にやくし堂が現れる。お堂は回廊付きであり、1793年の建立である。境内にはその他に1684年の石造七重塔や石造舎利塔などがある。 |
やくし堂を後にして宿内を先に進むと右手に黄色の建物・パインズスバが見え、その看板の隣の空き地に本陣・問屋・高札場跡の標識が現れる。そこには、ここが印南氏の本陣跡であり、問屋も兼ねていたこと、また敷地980坪、建坪381坪と奥州道中では最大だったことが記されている。往時の面影が何もないのは残念だが、標識が出ているだけでも有りがたい。 |
宿内をさらに進んでいくが街道筋の面影は見当たらない。暫く進んで行くと左手の信用金庫の前に那須与一像が現れる。解説には「源平屋島の合戦の折、乾坤一擲、一発必中、見事扇の的を射抜いた」のは1185年2月のことだったと記されている。その他、ガイドブックでは、往時の益子脇本陣跡が今は病院となっているとあるので、それらしい病院をデジカメに一応納めておいたが、確たる証拠はない・・・。 |
先に進むと、交差点が現れ、その左手に旧奥州道中と刻まれた道標と金灯籠が現れる。金灯籠は、ガイドブックでは道路の反対側にあると表示されているが1979年に手前の角に移されたようだ。その昔は道標も兼ねていたので、台石の西側には「江戸」、東側には「白川」と刻まれ、道路のまんなかに立っていたとのことだ。また、ここを左に進むと那須湯本・塩原へ向かう塩原道となる。この通りは商店が多かったので、今でも蔵づくりの店が残っている。 |
街道はこの交差点を直進し、仕出し弁当屋・まえむろの所を左手に折れ、ホテル・みつやの角を右手に折れて進む。だがしかし、時間も17時を過ぎているので今回の旅はここで終了とし、市役所前から西那須野駅に向かうことにした。市役所前でバスを待っていると路線バスの運転手さんとNHKの「てくてく旅」の話となったりして、待ち時間も結構楽しかった。運転手さんに感謝! |
10月7日、西那須野駅からタクシーで大田原宿に到着(1620円)。10時10分、ホテル・みつやの前から出発だ。暫く進むと曲尺手(枡型)となり、その先で左手にお寺が現れる。大田原藩主の菩提寺のあるお寺かなと思ったら違っていた。光真寺は左手に入りやや戻る位置にあるのだ。行ってみると山門には仁王様が立つ大きな寺だった。閑散とした広い境内で、墓がどこにあるのか分からず、時間をつぶすのももったいないので街道に戻って先へ進むことにした。 |
右にカーブした街道を進むとやがて車道と合流するがその手前、左手に大久保木戸跡の石碑が現れる。ここに宿場の出入り口の木戸があったようだがガイドブックにも解説がないのではっきりしない。車道と合流して左に進むとアーチ型の橋が頭上にあり、その先には蛇尾(さび)川を渡る橋が現れる。歩道付きなので安心して歩ける。この時、アーチ型の橋の右側には大田原城跡があることをすっかり忘れてしまっていた。残念! |
橋を渡った所で左に折れ、緩い右カーブの道を進む。広々とした平地に出ると道はほぼ直線となり、暫く進んでいくと左手に富士電機工場が現れる。都市部の工場と違って建物は二階建てのようだ。工場の先にコンビニがあるとタクシーの運転手さんに教えてもらっていたので、昼飯調達のため見逃さないようにして歩くがなかなか現れない。見逃してはいないはずだがと不安を胸に進んでいくと、やがて左手にセブンイレブンが見えた。そして同時にその手前に一里塚が現れた。一里塚とコンビニの両方が同時に見つかったので二安心した。周りをアスファルトに囲まれていたが、中田原の一里塚は檜こそ無いが確かに保存されていた。 |
一里塚を後にして暫く進むと、右に入る棚倉道の追分が現れる。ここには1694年に立てた道標があるのだが、石碑が3本ありどれがその道標なのかと迷ってしまう。結局、文字が消えかかった真ん中の石碑がその道標のようだ。この石碑の後ろには黒羽刑務所の看板があり「お気軽にお寄りください」と書かれている。その下に「作業製品展示場」と書かれているのを読み落とすとブラックジョークになってしまうのが面白い。 |
街道をさらに進むと、その先には大高野槇が現れる。推定樹齢400年のもので、奥州道中の三槇の一つで、市の天然記念物とのことである。大高野槇を後にすると街道はまっすぐに延び、時々道端には秋の花々が彩りを添えている。 |
やがて街道は練貫の先で右にカーブするが、その所に常夜搭や十九夜塔などの石碑群が現れる。その内の永代常夜搭は1756年に建立され、側面に「右奥州街道」「左原方那須湯道」と刻まれているとのことだが確認するのを忘れてしまった。黙々と街道を進んでいくと街道脇に入った道の端でトンボが休んでいた。更に歩いていくが13時を過ぎているので昼飯にしょうと日陰を探して進むが適当な場所がなく、樋沢の手前の刈り取りが終わった田んぼの中で昼飯にする。セブンイレブンで買ったおにぎりを頬張りお茶を飲んで暫し休憩。 |
鍋掛宿を目指して進んでいくと街道の左手に鍋掛の一里塚の看板が現れる。階段を上っていくと右手に一里塚があった。江戸より41里の塚で、もとはここより11m程東側にあったとのことである。さらに、道路工事で道が掘り下げられたので一里塚の場所が崖の上になってしまったようだ。その隣の奥には鍋掛神社がある。一里塚を後にして更に進んでいくとやがて十字路となる。そこを直進して進んでいくとその先は鍋掛宿だ。 |