10:白坂宿
・人口289人、家数71軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・雨が降っても傘いらずといわれたほど昔は軒が並んでいた

 白坂---皮篭---小丸山---白河 7.2km
 2007年10月28日




 
 白坂宿に入る手前にT字路があり右手に行くのが旗宿道である。芭蕉はここで右に折れて旗宿にある白河の関跡を訪れた。街道を先に進むと左手に、戊辰戦争に官軍として参加し戦死した兄を偲んで妹が建てた「旧大垣藩士酒井元之丞戦死之所」と刻まれた墓碑が現れる。なお大垣藩とは美濃国の在で、鳥羽・伏見の戦いの後に尊皇派に転身したとのことである。

 
 宿内を進んでいくと右手に「かめや」の表札が出ている亀山さん方が現れる。往時には旅籠かめやのあった所だ。かめやの反対側には白坂本陣があったのだが、ガイドブックでも不明なので亀山さん方で尋ねてみたら、「少し戻った斜向かいの所だ」と教えてくれた。早速、斜向かいの家に伺って尋ねたら本陣跡だが住人は代わっており、今住んでいるのは向かいの丁津屋という旅籠の末裔だとおかみさんが説明してくれた。分からないと思っていた本陣跡があっさり分かってしまったので、やはり地元の人に聞くべきだなと実感する。お礼を行って本陣跡と蔵屋敷がある丁津屋跡をデジカメに納めた。

 
 陽が傾きかけてきたので、金売吉次の砂金が埋められているのではと噂がたった観音寺はデジカメに納めるだけにして先に進む。

 
 車は通るが人気のない山を越えて国道を進むと平地が開け小さな川を渡り皮篭(かわご)に入る。なお、この橋は黄金橋というのだそうである。集落の中程に進むと左手に金売吉次の墓の標識が立ち、その横に小さな八幡神社が現れる。1174年、吉次兄弟が平泉から砂金を運んで京に向かう途中、この皮篭で盗賊に襲われて殺害された。村人が憐れんでこの地に葬り供養した。吉次の死を知った義経は、後日ここを通過するおりに吉次兄弟の墓を建て、八幡神社に霊を祀ったと伝えられている。

 
 神社の横の小道を300m程入ると左手に柵で囲まれた吉次兄弟の墓が現れる。中に三基の五輪塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六のものだと言われている。帰り道、墓の付近では遊んでいた小学生の男子3人が私を見て「こんにちわ!」と挨拶してきた。突然の挨拶に「こんにちわ!」と笑顔で挨拶を返したが、旅人にも挨拶するように地域の方々が教育していることに感心した。

 
 街道に戻って先に進むと左手に赤い頭巾を被った座り地蔵が現れる。暫く進んでいくと左手に新白河中央病院、右手にコンビニがあるT字路となり、信号を渡る。この付近に一里塚があったそうだが今はその跡形もない。一里段という地名としてのみ残っているとのことだ。

 
 さて、いよいよ夕闇が迫っているので、緩やかにカーブする山道を急いで抜けて行くと、遠方に白河郊外の大型店の明かりが見えてくる。平地に出た所でY字路となり国道と分かれていったん右に入ってぐるっと回り込んで再び国道と合流、国道289号線の交差点を直進して進んでいく。その先は白河宿だ。


(09芦野宿) (11白河宿)

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