05:佐久山宿
・人口473人、家数121軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒
・この地は那須与一で有名な那須氏発祥の地である
・同族の福原氏に攻められて滅亡し城は廃城、その後福原氏の居城となる

 佐久山---滝沢---親園---すじがい橋---大田原 6.4km
 2007年5月4日




 
 小川に架かる渡って宿内に入り、暫く進むと右手に佐久山宿下町の道標が現れる。その先の右手には那須与一の壁画のある公衆トイレが現れる。旅人にとってはありがたい施設だ。車でドライブしていた家族づれも利用していた。

 
 往時の街道筋の面影をまったく残していない宿内を暫く進むと、やがて左手に郵便局が現れる。この手前が井上本陣跡であるのだがと、近所の方に本陣跡かどうかを尋ねたら、駐車場の奥が本陣をしていた井上さん方だと教えてくれた。この地は那須氏発祥の地であり、与一の兄泰隆が佐久山城を築き、家臣団を城下に配置したのが佐久山の始まりである。1563年に福原氏に攻められて滅亡、一時は廃城となったが福原氏が修築して居城としてきたとのことである。その城跡が街道の左手奥にあるのだが、公園となった城跡があるだけなので見学は省略することにした。

 
 宿内を更に進むと与一温泉ホテルという看板があったが、宿内には那須与一の故郷であると書かれた掲示板や標識はどこにも見受けられなかった。唯一トイレの壁画だけが無言で語っているだけだ。

 
 やがて宿場の端にくると街道は大きく右手にカーブし、佐久山宿を後にする。暫く進むとやがて箒川に架かった岩井橋を渡る。歩道付きなので安心して左手奥の那須の山々を見ながら進める。緩い上り坂を進んで行くと、やがて街道は平坦な直線の道となる。

 
 暫く進むと左手に大きな白壁の門の民家が現れる。昔なら差しづめ庄屋といった感じのする家だ。その先の吉沢という地区は天然記念物のイトヨ棲息地であるとガイドブックに記されているが興味がないのでひたすら歩く。炎天下の車道歩きで疲れ、冷たい飲み物が欲しくなるが、町ではないので諦めてひたすら歩いていると、信号の先にコンビニが現れる。吸い込まれるようにコンビニに入ってしまう。そして「旅人にとってコンビニはオアシスだな~」などと呟きつつ、店の前でアイス最中を頬張り、お茶を飲む。一息ついてから再び歩き始める。

 
 親園を過ぎて左手に蒲蘆(ほろ)碑が現れるはずなので注意深く歩いていると、加茂内川の所で石碑と、朽ちた祠が現れる。石碑の文字も判読できないし解説も無いので、念のためデジカメに納めて先に進む。

 
 あれが蒲蘆碑なのかなと不安を抱えて暫く進んで行くと左手の神社の入り口に本物の蒲蘆碑が現れる。これは1803年から20年間、この地を支配した代官・山口鉄五郎高品の善政を讃える石碑で、159文字が刻まれているという。それがお堂の中にあるのだ。「はてしなく浮世の人に見するかな、那須の野面のほろのいしぶみ」という手代・飯岡直蔵重武の歌が裏に刻まれている。蒲蘆の由来は、蜃気楼を指すこの地の言葉と孔子の言葉「夫政也者蒲蘆也」とが関連していると解説してあったが、いま一つはっきりしなかった。

 
 また、道路を隔てた右手の国井氏宅の敷地内には、町初(まちはじめ)碑が真新しいお堂に納められていた。八木沢が1627年の奥州道中の開通により開かれた町であることを示す記念碑だと言われている。

 
 町初碑を後にし、すじがい橋を渡るとまっすぐ北へ延々と延びる街道となる。車道の左手に歩道があるので安心して歩けるが、日陰がないので辛い。変化がないのでカメラに納めなかったことがくやまれる。戦前までは松並木が3kmに渡って続いていたのであるが、戦争末期に供出で切り倒してしまったとのことである。戦争を恨みながら黙々と歩く。やがて街道は左にカーブし、交差点にでる。この交差点で右に折れて進むと大田原宿である。


(04喜連川宿) (06大田原宿)

ホーム奥州道中>佐久山宿