11:白河宿
・人口5959人、家数1285軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒
・徳川幕府の道中奉行の管轄下にあった奥州道中は白河が最終の宿駅であった
・鎌倉時代には結城氏が小峰城を築いて支配していたが秀吉の奥州遠征で滅ぼされる
・徳川幕府は関東の境にあたることから松平定信など各譜代大名を配置した

 白河
 2007年10月28日、29日




 
 17時05分、白河宿の西端である松並に到着したが、暗くなりデジカメでの撮影が不可能となる。宿場内をデジカメに納めないことには記録が成り立たないので、再度来訪するか悩みつつ白河駅を目指して歩く。悩んだ末、白河に宿泊して明日宿内を探訪することに決定。暗くなった駅前をうろうろして旅籠を探し、やっと久下田屋を見つけ泊めてもらうことに。宿の主人の話では江戸時代から旅籠を営んできたとのことで、近頃は芭蕉の足跡をたどるてくてく旅の人が幾人も泊まったとのことだった。部屋も綺麗でなかなかいい。

 
 翌29日、近道をして松並にでる為、市役所前を通過したが、近くの谷津田川(やんたがわ)の紅葉が綺麗だったので感嘆してデジカメに納める。途中道に迷いつつも、9時50分松並に到着。さっそく白河宿内の探訪を開始だ。

 
 街道は宿の入り口の松並で右にカーブする。ここには街道の右と左に戊辰戦争の戦死者の碑が立っている。白河は、1868年4月末から5月始めにかけて、会津・仙台・棚倉の東北連合軍が攻めてきた薩摩・長州・大垣(美濃国)の官軍を迎え撃った地であり、檄戦が展開された所である。白河口での戦いで一旦官軍を追い返したが、その後再び襲来して激戦となり両軍ともに数多の戦死者をだし、ついに東北連合軍が敗退、小峰城も落城したとのことである。右手には長州大垣藩戦死六君墓と刻まれた石碑がある。大正までは薩摩藩の戦死者7名も葬られていたと解説されている。

 
 また左手には、会津藩戦死墓、松平容保筆の鎮魂碑が立っている。墓には江戸家老横山主税はじめ304名の戦死者の名が刻まれている。その他、会津藩士・田辺軍次の墓もある。解説によると、東北連合軍が敗れたのは大平八郎が官軍の道案内をしたためだと信じ、その遺恨を晴らすため白坂宿で大平八郎を斬殺し、自らも屠腹して果てた。八郎の子・直之助は仇である軍次の墓を観音寺に建てたのだが、その後ここに改葬されたとのことである。この地で壮絶な戦いが行われたことを知り絶句する。合掌!

 
 松並を後にして街道を進み、谷津田川に架かる南湖橋を渡って進んでいくと信号のあるT字路が現れる。左折すると那須湯本道であるが、その角に庭の松の木が美しい豆腐料亭が現れる。その先に進むと右手には白壁の美しい着物の店が現れる。街道は一番町で月よみの庭という石を敷きつめた公園前を右折する。

 
 暫く進んで行くと曲尺手が現れる。その先の右手に問屋があったのだが不明。場所的にはキクチという靴屋のあたりのようだが。宿内は今風の店が並び街道筋の面影はないが、しかし白壁の美しい建物があったりする。再び曲尺手が現れ本町に入る。  

 
 本町を暫く進んだ左手に脇本陣、右手に芳賀本陣があったのだが不明。本陣跡調査のため、文房具屋さんで尋ねたら、本町の角を曲がった近くの加藤せともの店の隣にそのようなものがあったと紹介される。加藤せともの店で聞くと隣の格子戸の中に標識が立っていると教えてくれた。早速、格子戸を開けてみると脇本陣柳屋蔵座敷と標識が立っている。そこには戊辰戦争のときに新撰組の宿営地だったことと明治天皇が泊まったことなどが記されている。奥には蔵座敷が保存されている。

 
 感激して次に肝心の芳賀本陣跡を探るために近くの着物店の松河屋に入って尋ねたら、女将さんが宿場の歴史に詳しい近所の方に聞いて案内してくれた。本陣跡に行くと女将さんから紹介された大寺さんという方も見えて、芳賀さん方は昔旅館だったと教えてくれた。そこは脇本陣跡の斜向かいの堀川印刷所の左隣で、「ここの二軒が芳賀さん方があった場所で、芳賀さんは引っ越してしまった」とのことだった(ガイドブックでは洋品店と時計店といっていたが今はシャッターが下りていて不明)。町は何度も火災にあい、古い建物も焼けてしまい、往時の面影を残すものが無くなってしまったことも説明してくれた。本陣跡を発見できたことで私は大感激。女将さんや大寺さんにお礼を行って、本陣跡を後にする。

 
 先に進む前に、小原庄助さんのお墓も見ておこうと、曲尺手の角から西に進み皇徳寺の境内に入り墓を探して見ると、最奥端に徳利に盃を載せた墓が現れる。庄助さんは羅漢山人に絵付けを習いに来ていて安政5年没した。戒名は「米汁呑了信士」。時世として「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」を残したと解説されている。また近くには新撰組や東北連合軍の戦死者の供養碑が立っている。

 
 街道に戻り暫く進んでいくとゼネラル石油のスタンドが現れ、T字路となる。ここで左折して進み、JRのガードを潜り約500m位進むと阿武隈川を渡る田町大橋にでる。この橋の手前に木戸があり、ここが白河宿の出入り口だった所だ。奥州道中の終点はその先の女石にある仙台道と会津越後道の追分だが、次回に歩くことにして今回の街道歩きは橋の手前までにする。

 
 ところで白河宿でもう一つ探訪しておかなければならない所が小峰城だ。この城は南北朝のころに結城氏が築城し、その後1632年に丹羽長重により本格的に築城されたものである。街道を引き返し、城山公園内に入り城に上って行くと本丸御殿跡があり、その端におとめ桜がある。おとめ桜は、城の石垣が何回も崩れたので人柱を立てることとなり、通りかかった藩士の娘が犠牲になった。その娘を哀れんで植えられた桜であるとのことだ。

 
 本丸御殿跡には観光客や家族づれが来ていてそれなりに賑やかだ。公園からの帰り道、色付き始めた桜の枝越しに小峰城を眺めると、そこにはなんとも言いがたい日本的情景が見える。しかし同時に、人柱や戊辰戦争での戦死者など痛ましい歴史も秘められているものだった・・・・。最後に、駅前のそば屋で暖かい昼食とり、白河宿の探訪を終了とする。東京へ向かう新幹線の中で、白河宿の本陣跡を見つけられたので休みをとって探索した甲斐があったこと、また、白河宿をはじめ、それぞれの宿場の皆さんが心よく協力してくれたことが嬉しく思いだされた。「いろいろ有りがとうございました」と皆さんに感謝して眠りにつく。


(10白坂宿) (12本陣跡)

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