09:芦野宿
・人口350人、家数168軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・神田明神下の旗本芦野氏の支配下の領地で宿の東側に桜ヶ城があった
・芦野氏は鎌倉時代からの地頭であり那須七騎の一家としてこの地を治めていた

 芦野---板屋一里塚---寄居---明神---白坂 12.1km
 2007年10月7日、10月28日




 
 黒田原駅からタクシーで芦野氏居館跡に乗りつける(1940円)。新幹線で来たが黒磯駅から先の本数が少ないので10時10分着になってしまった。ここは芦野氏の最も古い城郭跡で、鎌倉時代初期にこの地の地頭であったころのもの。室町時代になると近くの丘の上に館山城を築き、この居館は廃棄された。その後に桜ヶ城に移ったと言われている。

 
 街道に戻り、国道294号線を横断し奈良川の橋を渡って芦野宿に入る。橋のすぐ左手に大きな石地蔵が現れる。その先を左に折れて進むと曲尺手がある。宿内の家々には往時の屋号が立っている。

 
 柳屋の屋号のある櫺子格子の家が右手に現れる。その先には蔵座敷のある旅籠だった丁子屋がある。今は旅籠を止め鰻屋とのことだ。また、白壁の美しい正喜屋の屋号の家も登場する。

 
 信号のある交差点を超えた先の左手にはストーン・プラザがあり、ここが本陣跡である。ガイドブックにも、現地でも本陣の屋号がないので、付近にいた地元の消防団の方たちに本陣跡を聞いたら、「分からないので歴史探訪館で聞いたらどうか」と言われ、那須歴史探訪館に伺って教えてもらった場所だ。歴史探訪館は交差点を右に折れて坂道を上っていくのだが、その途中に芦野氏の家臣で上級武士だった平久江家がある。

 
 さらに上っていくと右手奥に歴史探訪館があり、歴史の資料がいろいろ展示されている。本陣について質問したら係のお爺さんがきて、街道の絵図や宿場の模型、本陣に掲げた白河藩や松前藩の焼け残った宿札なども交えて説明してくれた。江戸に通じる宿場として繁昌した宿場だったとのことだ。なお脇本陣は模型からすると現在の黒川屋の屋号のある辺りのようだ。

 
 本陣跡を跡にして北へ進むと宿場の出口の曲尺手が現れる。そこを通過して進むと左手に新町地蔵尊がある。芦野宿では生活域に災厄を入れないように、また旅人の安全や倒れた人を供養するとの考えで宿場の出入り口に地蔵尊を配置したと解説している。

 
 橋を渡り国道を横断すると左手遠方に、西行や遊行上人そして芭蕉などにまつわる遊行柳が田圃の中に見える。訪れて見ると大きな柳の木が左右にあるが左のものが当の遊行柳のようだ。この柳も何代か代わっているとのことだ。「道野辺に清水ながるる柳陰」と西行法師が詠じたこと、時宗19代の遊行上人が柳の精の老翁を成仏させたことから遊行柳といわれるようになったとかの言い伝えの解説が立っている。また芭蕉も立ち寄り「田一枚植て立去る柳かな」と読んだのでその句碑がある。その他、蕪村の句碑もあるそうだが見落とした。この遊行柳の奥には湯泉神社があるが、時間をとりすぎるので探訪は省略した。街道に戻ろうとすると、団体客がぞろぞろと見学にきた。


 国道となった街道を300m位進んでいくとY字路が現れるので、旧街道はたぶん左の道であろうと推測して左手に入る。暫く進むと、ここでも消防小屋の前に制服を着た団員の方たちが集まっていたのでべこ石の碑を尋ねると、もっと先の左手にあると教えてくれた。この道が街道であることに自信を得て、軽快に歩いていくと左手の土手の上にべこ石の碑が現れる。これは芦野の学者戸村忠恕が1848年に道徳を振興する文章を石に刻んだものであるが、石の形が臥牛の形に似ていることからこのように呼ばれていると解説している。


 国道に出てその先のY字路で再び左手の旧街道に進むと、左手の土手の上に峰岸館従軍者之碑と峰岸館兵従軍之碑が立っている。戊辰戦争の時に黒羽藩は官軍として戦った。この時、藩内の農民が峰岸館で洋式兵隊の訓練を受け、各地で戦功をたてたことを後世に伝えようとして建てたものとのことだ。

 
 その先に進むとY字路が現れる。ガイドブックには無い道なので、慌ててGPS地図を出して調べるとどうやら右手の道が旧街道らしい。国道と分かれて右手の道を進むと奈良川を渡る橋があり、暫く進むと板屋の集落に入る。右からの道が合流するT字路の先の左手に諭農の碑と言われる大きな石が立っている。これは先に見たべこ石の碑と同じく戸村忠恕が建てたもので、病害虫の駆除・予防法、飢饉の際の備蓄法などを農民に教える文言が刻まれている。その先には左右の土手の上に一里塚がある。道路の改修で道が切り通しとなって下がった為、一里塚が土手の上に取り残されたようだ。この板屋の一里塚は江戸から44里を示すものだ。

 
 一里塚を後にして先に進むと蟹沢に入る。街道沿いには珍しいなまこ壁の蔵が現れる。さらに進んで行くと街道は大きく右にカーブし高瀬の集落に入る。「手つかずの(旧)奥州道」という道標が右手の小道横にあるが意味が不明。その先の左手のギラリー古道具屋さんの壁には「10月24日高瀬宿を通過 四元奈生美さんのてくてく旅を応援しょう」のポスターが張ってあった。数日前にNHKのてくてく旅の一行がここを通過したらしく、その時の写真が掲示されている。四元さんという美人のお姉さんが歩っていることや甲州街道からいつのまにか奥州街道に変わったことなどを知り、NHKもなかなかやるなと元気づけられる。

 
 道端の花や柿の実などを愛でながら進むとやがて街道は国道と合流する。国道を暫く進むと右手の道路端に自販機ある平田のT字路にでる。ここからは右手に小道が続いており、再び国道と合流するので、旧街道はこの小道の方らしいと思ったが確証がないので国道を進む。車は通るが歩く人のいない国道を黙々と進む。腹が減ってきたので右手の小道に入ってランチタイム。丁度いい木陰がないので道の真ん中に腰を下ろしておにぎりを頬張りお茶を飲む。

 
 再び国道に戻って暫く進んでいくとY字路が現れる。ここもガイドブックには無い道なのでGPS地図を取り出して見ていると、近くにいた農家のおばさんが「白坂の方にいくのなら右のバイパスを行くと近道だ」と教えてくれた。バイパスでは困るので「旧道を行きたいので左側ですね」というと、そうだと教えてくれたがいぶかしく思っているふうだった。往時は立場だった寄居の入り口にいることを確認し、寄居の集落内を進んでいくと右カーブの角に長屋門のある家が二軒並んでいる。旧家なのかなと一応とデジカメに納めた。

 
 寄居の集落を抜けて暫く進んでいくと左手に泉田の一里塚が現れる。江戸から45里だ(板屋の一里塚が44里ならば泉田は45里のはずだがガイドブックでは46里と記載している)。右側の塚は無くなっている。この一里塚の先の右側に上り坂の小道があるので旧街道ではないかと入ってみると、ガードレールが左側についており、舗装されていて、やがて下り坂となり国道と合流するが、白坂側からは進入禁止となっていた。昇り降りの坂道なので街道脇に平坦な新道を設けたと推測できるので、たぶん旧街道であると私は思った。

 
 国道を暫く進んでいくと左手に「寄居大久保」の道標が立っているので、橋を渡り100m位進んでから右折して進む。左手は大きな石切り場だ。川沿いに来た道と合流地点に地蔵や二十三夜塔、「従是江戸四十五里五丁」と刻んだ道標が並んでいる。

 
 暫く進んでいくと右手の田圃の横に初花清水の石碑が立っている。その先の国道との合流地点には瓢石(ふくべいし)と刻まれた石碑と石の瓢単(ひょうたん)が立っている。棚倉藩の武士である飯沼勝五郎は、兄を滝口上野に殺された。同じように父を滝口に殺された初花と夫婦になって仇の滝口を追ったが足を病み、ここで治るのを待っていた。その時に瓢箪を岩に掘ったのが瓢石といわれるもので、初花が使っていた清水を初花清水というのだそうである。しかし、ここから箱根まで仇を追って行っくというのはすごい執念だなと感心。なお、本来の街道は道標の先からもっと山側を通っていたが、今は埋もれて通れないとのことだ。

 
 国道に出て暫く進んでいくと右にカーブして山中の集落を通過するのだが、ガイドブックでは一本道なので左手の田圃を眺めながら歩いてしまった。緩やかな右カーブなのでやや不信に思いながら歩いていたら右からの道と合流したので、慌ててGPS地図で確認したら山中を越した位置だった。ガイドブックの地図を信じきってY字路を見落としたのだ。がっかりしたが戻る気にはなれず中山通過を諦めることにした。

 
 さて、ここからは国道歩きとなり、黙々と国道を進む。暫く進んで行くと左手に旧街道ではと思える坂道が現れる。上っていくとやがてまた国道に合流する。ガイドブックに左手に馬頭観世音があると紹介されていたが右手に移っていた。さらに進むと、左手の崖の上に石仏が現れるが、解説がないので由緒は不明だ。

 
 さらに国道を進んでいくと左手に下野の境の明神(玉津島神社)が現れる。下野の神社は明治39年に類焼し昔日の面影を失っていると解説してある。その100m先には陸奥の境の明神がある。

 
 陸奥の境の明神には奥に宮があり狭いが立派な作りだ。境内に「風流のはじめや奥の田うへ歌」の芭蕉句碑があるらしいが確認できなかった。

 
 二つの明神の中間には県境の標識、崖の上には松平定信が建てた「是北白川領」の領界石がある。また、陸奥側の右手の崖の上には白河二所関跡碑があるが詳細は分からない。

 
 境の明神を後にして暫く進んでいくと左手に大木があり「衣がえの清水」の標識が立っている。弘法大師がここの清水で衣を濯いで着替えたとの伝説があり、芭蕉もここで休憩したという解説がある。水がこんこんと涌き出ているのでチット飲んでみた。この清水の少し先の右手に一里塚があったのだが消失して不明だ。この先も国道歩きとなるが、いよいよ白坂宿だ。


(08越堀宿) (10白坂宿)

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