04:喜連川宿
・人口1198人、家数290軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠29軒
・この地は古に狐川と称していたが足利氏藩主となり喜連川に改名した
・喜連川藩足利氏は家康により優遇措置を受けていた

 喜連川---つるが坂---曽根田---前坂---佐久山 10.8km
 2007年5月4日




 
 連城橋を渡って宿内に入り、暫く進むと右手に朱色の山門の龍光寺が現れる。ここは喜連川藩足利氏の菩提寺であり、境内の奥には足利家代々の墓が並んでいる。その由来は、足利家の島子がこの地を領していた塩谷氏の妻となったことに始まる。豊臣秀吉が奥州仕置きに来るや塩谷氏は家を捨てて出奔。それを弁明しに古河に向かった島子を秀吉は側室にし喜連川3800石を化粧料として与えた。島子はその所領を弟の国朝と古河公方(足利家)の直系・氏姫とを結婚させて継がせ、古河公方家を再興した。また新田氏の末裔と称した徳川家康により、足利家は参勤交代免除などの優遇措置を受け、十万石の格式を与えられていたとのことである。米沢藩の上杉侯はこの地を通る時には必ず笠をとって通過したなどの言い伝えもある。以上のことは、百街道一歩さんのHPをたどって分かったことです。秀吉の「女好き」の影がこういう地に現れていたとは・・・・。

 
 街道に戻り町並みの西側裏に入ると御用堀と武家屋敷が整然とあり、往時を偲ばせる造りが維持されている。堀には鯉が泳いでいた。宿内を先に進むと左手に櫺子格子の古風な家があり、その奥には喜連川城跡の大手門がある。大手門の内に入るとそこは市役所だった。清潔な公衆トイレがあったので拝借した。

 
 街道に戻って進むと、右手に街の駅本陣という食事所があり、そこは往時の上野本陣跡であると掲示板に解説してあった。街道を先に進むと仲町の交差点の右手にノザワヤという店があるが、ここは昔一里塚があった箇所だとガイドブックにある。更に進んで行くと右手の駐車場に枝振りのいい松の木があるが特に謂われはない。

 
 暫く進んで行くと右手に小中屋酒店があり、その角を右折する。この時、左手に追分の道標があったのだが確認するのを忘れてしまった。残念!追分を右折して坂道を下り曲尺手(枡型)を左に折れて進むと内川の土手にでる。金竜橋を渡り喜連川宿を後にして国道114号線となった街道を進んで行く。

 
 街道を通過する車は少ないが歩道が区分されていないので注意しながら歩くことになる。これといって見るものもなく、ひたすら黙々とと歩くことになる。つるが坂という上り坂をすぎ、下っていくと佐久山と喜連川を示している現代の道標が立っている。そろそろ昼飯時となったので木陰を探して歩いていくと、左手奥に大木の木陰があったので、早速腰を下ろしておにぎりを頬張った。その脇には白い可憐な花が咲いていた。暫く休憩した後再び歩きだす。街道脇の民家には鯉のぼりが泳ぎ、街道歩きの旅人の心を和ませてくれる。

 
 曽根田の交差点を右折して進むと右手に道祖神と明治天皇休憩碑が現れる。その先に進むと街道脇の水田では田植えが行われていた。時折車が通る意外は人気の無い街道を進んで行くと、やがて右手に広場が現れ木陰もあったので小休止。隣は幼稚園のようだ。天気がやや良すぎるなと独り言。この先は何も無く黙々と歩くのだろうなと思いながら進んでいると、左手にほほえみ仏という小さな石仏が現れる。可愛いらしいのでデジカメに納めておいた。

 
 車が少ないので周りの自然を独り占めした気分で黙々と歩く、黙々と。途中自販機でお茶を買って進んで行くと、やがて前坂の交差点が現れる。直進する車がないので、もしかすると間違っているのかもと思いながら直進していくと急坂を下っていくことになる。これでは車が嫌うはずだと納得しつつ歩き、突き当たりで左手に折れるとその先で前坂を左折した車道と合流する。この先は佐久山宿だ。


(03氏家宿) (05佐久山宿)

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