ウォーキングの合間の無駄口
今日、先日語ったように、太宰が小説『津軽』で語っていたことなどを入れて、HPの記事を一部修正しました。蟹田宿、平舘宿、今別宿、三厩宿、龍飛岬の各HPです。今回再度小説を読んで、太宰は三厩宿の義経渡海伝説を「恥ずかしい」と恥じていたことをしりました。今の龍馬に乗って渡海する伝説をしったらさらに恥じ入るのではと思われます。ともあれ、往時の津軽のことを知る手だてとして太宰の『津軽』はなかなかいい資料ではないかと思いました。津軽を歩く方にお薦めです。ではまた。
太宰の小説「津軽」を読み終えたのでチョット紹介しておきたい。津軽に行く前にできれば読んでおいた方がよかったかなと思う。津軽藩と南部藩との対立の起こりは、津軽の藩祖大浦氏が南部藩の支族であったことにあるらしいことを紹介していて「ああ、そうなのか」と理解した。また、義経の渡海の状況について江戸時代の東遊記の抜粋で、渡るべき順風がないので所持していた観音像を岩の上において祈ったらたちまち風がふいて松前にわたったこと、波うち際の岩には穴が三つあって義経の馬を繋いだところで三馬屋と称するようになった、などの紹介がある。翁も龍馬も出てこないで、ただ風が吹いて船でわたったというシンプルな話だったのだ。龍馬が出てくる現在の話をきいたら太宰もびっくりすると思う。誰が話を盛ったのだと太宰もいうのではないかと思う。その他、今別の本覚寺での鯛の話や、蟹田の蟹、龍飛まで歩いたのに袋小路以外に表現がない酒盛りの話など、がある。HPの文章も見直して太宰の話をチョット入れてみるかと思っている次第です。どうなることやら、お楽しみに。ではまた。
蟹田宿の所で太宰の友人の Nさん宅のことについて紹介しましたが、そこで津軽地方のことを書いている太宰の小説『津軽』を読んでみることにしました。文庫本は角川から出版されていたので古本屋で探したが見つかりませんでした。諦めかけたが、最近例の芥川賞をとった又吉先生が太宰を愛読しているとかで、もしかして再出版しているかもと、本屋で文庫本を探してみたら、ビンゴ。なんと新潮社が太宰のものをズラ~と再出版していたのです。しかも又吉先生愛読の写真付きで。なので新品の『津軽』を手に入れて読んでいる次第です。太宰は1944年5月に小山書店の依頼で故郷の津軽を3週間かけて旅し、津軽風土記を書いたとのことです。その当時はまだ鉄道はなく、青森からバスで蟹田にいき、友人のNさん宅に宿泊してSさんやMさんなどが登場し、蟹や酒で歓待されたようです。近くの観瀾山にも登ってそこでも酒盛りをしたとのことが書いてありました。その後三厩へ行くことになったが、天気が悪くて船が出ず、Nさんと歩いて行ったことなどが載っている。なお、蟹田はその名のとおり蟹がとれるところで、松葉ガニかとおもったらそうではなく毛ガニのような足の短い蟹がとれていたらしい。私の旅館の食事ではそのようなものは出なかったように思えるが・・・・・。蟹田のEという旅館でも宴会を開いているがその旅館はその後火災で消失したのだが、場所は私が泊まった中村旅館のあたりなのだ。そんなことは知らなかったので旅館に聞いてみたくなったりもしています。ということで、誰にも聞けない津軽の事情を知るためにはなかなか参考になる本だと思えました。なので、HPの記述もチョット変更したほうがいいかなとも思っている次第です。ではまた。
昨年11月に歩いた青森宿から三厩宿までと龍飛岬のHPを追加しました。またアルバムも追加されていますので興味がありましたらご覧ください。ところで三厩宿では義経の渡海伝説のみを売り物にしているようですが、龍馬に乗ってというのは明治になってからの創作のようで、江戸時代までは三厩湊から渡海したというだけだったようで、話を盛りすぎているのではといささかゲンナリです。三厩という地名は義経と関係なく、先に三つの岩窟があったからなのでしょうが、そこら辺のつながりはどうなんでしょうか、中尊寺からここまでくるだけでも大変な逃避行なのにどうしたんだろう・・・・・、考えると夜も眠れなくなりますので考えないようにしています。ということでとりあえずHPの追加完了報告まで。ではまた。
新年あけましておめでとうございます。年末にシステムのアップデートなどをしたからか、アルバムデータベースがエラーを起こすようになり、ついにダウンしてしまいました。なのでアクセス不可のメッセージ出ていた次第です。突然のことなので、復旧に手間取ってしまいました。11月の松前道最後のウオーキングの写真を登録はできたのですが、動作確認中に応答しなくなってしまった次第で、応急措置をとりました。そろそろサーバーを取り替える時期なのかもしれませんね。なお、青森宿から龍飛岬までのHPを近々アップすべく準備中です。ではまた、よろしくお願いします。
青森宿から北へ街道を歩くと、路傍に小さなお堂があり、着飾ったお地蔵さまが安置され、となりに百万遍供養塔もある。この供養塔はお堂の中だったり、外だったりするが、とにかくよく登場してくるので驚くばかりだった。これまでの街道では見慣れない光景なので、この地方の人は信心深いのかなと思っていた。しかし、お地蔵さまは分かるが、百万遍供養塔というのがわからなかった。なので後から調べてみると、「百万遍供養塔は一般には念仏塔といい、 集落の人々が講を作り、 「なむあみだぶつ」を唱えて、全員の念仏が百万回に達したのを 記念して供養塔が建てられたものです」との解説があった。村の入り口に設置 されたとの解説もあったので数がおおいのも納得がいった。神仏に集落を守ってもらいたいという村人の気持ちが現れているものだったのだ。そういえば宿場の外れによく大きなお地蔵さまが設置されていたことを思いでした。また、この地方では浄土真宗が広まっていたことを示しているのだとわかった。ところで、どこのお地蔵さまも着飾っているが、私的には素朴な石の地蔵さまのほうが味があるのではと思うのだが、それは余計なことか。ではまた。
先日(11月7日)、松前道ウオーキングはついに最終地点の三厩に到達しました。朝9時ごろ、厩石前の松前街道終点之碑に到達し、自撮りで石碑と自分を写しました。この季節と時間ですから、公園内には誰もいませんでしたが、ひとり感動していました。「ついに松前道を歩ききったぞ」と心のなかで叫んでいました。街道歩きの面白さを知っていないと松前街道終点の意味も感激もないのは当たり前ですが。その後、階段を登って義経寺に行くと老夫婦の観光客がいました。車できていたようで、歩いて来たのは私のみのようでした。11月4日に青森駅から歩き始め、油川宿、11月5日には蓬田宿、蟹田宿、平舘宿、11月6日には今別宿、11月7日には三厩宿と歩きました。天気もよく、快適でした。なお、7日はその後に、龍飛岬まで(12km)を歩きました。結構風が冷たく、手袋をしないと手が痛く感じるほどでした。気温は手元の時計で測ると11度。それにしてもどこまでも人家があるのには驚きしまた。龍飛岬では展望高台へと階段国道339号を登っていくわけですが、なんでこれが国道なのだと思いましたがその答えはどこにも解説されていませんでした。さらにその上の高台に上がると急峻な地形の上に橋があり、かなりビビリながら渡ったり、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を何回も聞いたりと本州最北端を楽しみました。2010年5月に仙台を出発し、5年半後にやっと松前道を踏破したわけですが、東日本大震災があり、原発の爆発がありで、見通しがたたなくなったりもしましたがとにかく踏破できて感激です。これからはHPづくりに精をださなければと考えているところです。ではまた。
先日、金成宿から有壁宿、一関宿のルートのGPSデータをgoogle地図から作成していて気づいたのですが、私が歩いた2010年には地図にはなかった山道(旧街道)が、今の地図には記載されているので驚きました。山の中の道であり、交通量も少ない、ていうか徒歩でしか通れないので年間10人も通るか否かの道だと思える道が、地図に記載されていたので、かなりまじめに調査しているんだなと感心しました。さすがプロの地図屋だと。しかし、十万坂や有壁宿から一関宿への山道の一部が記載されてないので、その点は残念でした。今後に期待したいと思います。その部分について私は、航空写真の絵から多分道はこうだろうという推測でルートのGPSデータを作成しました。5年も前のことなので山道の記憶が遠くなり、やや怪しい点もありました。金成宿から有壁宿、一関宿への山道ルートは2010年前後に街道復活活動を地元の観光協会の方々がやっていただいて復活したもので、私は歩くことができませんでした。もう一度歩いて復活ルートを楽しみたいと思っています。三厩宿まで踏破した後で。ということで、ではまた。
宮野宿から沢辺宿までの街道ルートのGPSデータを作っていたところ、これは一里塚ではないかと思える箇所があったのですが、確認できないのでそれを匂わす程度にHPに書いておくことにした。現場を通過したときに現地のおじいさんに今は廃路となった道を聞いていたときに、「ヤンマーとモーテルの間にでる道が街道で、そこに一里塚があって昔はそこで遊んだ」と語っていたことを思い出し、その付近をストリートビューでみると、ヤンマーとモーテルの間で街道が左手から接続する角に小山があり木が繁っている所があった。おじいさんの話とマッチするのだが、再度現地にいって聞き込みをして確認することが必要だがそれができないので残念だ。で、一里塚専門のHPを見ると、宮野の大仏一里塚は現存らしいが不明で、もっと北側ではとあった。地名としての大仏というのがおじいさんのいっていたヤンマーの手前の箇所なので、私の気づきとあっていると思い、ここではないか?程度に記述を変更しておくことにした。今後、現地を通過する人が調査してくれることを期待したいと思います。このブログを見た人で、現地を探索できる方がおりましたら調査をお願いします。
東京は猛暑日が連続して8日となり、まったくいやになる。暑くて外出しなくなり、引きこもりとなってしまっている。なので、今はPCに向かって松前道のGPSデータつくりをしている。そこで気がついたのだが、吉岡宿から三本木宿へ行く途中、山を越えていくのだが、当時はその山が整地されていて街道も一里塚も跡形もなく、なくなっていた。山の中の広大な工業団地にどんな企業がくるのやらと思っていたのだが、GPSデータをつくるために街道を地図上で追っていたらなんと、そこにはトヨタ東日本の大工場があった。街道はその工場の真ん中を横断していたので消されてしまったのだ。道路文化に関係する会社によって以前の道路文化が消されてしまうとは・・・・・なんとも皮肉な話だ。金儲けに走ってばかりでなく、自分たちがつぶした一里塚跡の碑ぐらい立ててもらいたいものだ。数億の年収のある社長ならポケマネでもできるだろうに。大衡村も善処すべきではないのか・・・、と愚痴をいいたくなってしまった。猛暑日が続くので、引きこもり生活がこの先も続きそうです。ではまた。