01:日本橋(にほんばし)
・慶長8年(1603年)に架橋、街道の起点となる
・江戸東京博物館に復元された日本橋がある
・現在の橋は明治44年(1911年)に建造、橋の車道の真ん中に日本国道路元標が埋設されている
・日本橋から日光東照宮の入り口、鉢石宿までは36里強、約142kmの道のりである

 日本橋---浅草見附跡---御蔵前跡---雷門---千住 8.6km
 2005年5月28日





 2005年5月28日、晴れ、10時30分、日光道中の基点である日本橋に立った。東海道に旅立ったのが2002年7月だから、3年ぶりの日本橋だ。日本橋の北側に立ってみると、道路元標の碑や各地への里程標などがあり、南側よりも華やかであるので、「えっ!そうだったの」と軽く驚いた。今回は道路の真ん中にある元標そのものも撮ってみた。しかし、由緒あるこの日本橋が高速道路に押さえ込まれている風景はどう見ても不細工だなと道路行政に不満をもってしまう。


 さて、日本橋を後にして、千住宿へといざ出発だ。三越デパートの前には、五街道の解説や三越呉服店・三井財閥の開祖である三井高利と越後屋についての解説の掲示板が出ている(越後屋三井から三越と称した)。越後屋と聞くと「お前も悪よの、うふふふふ」というTVコマーシャルを思いだしてしまう。いつのまにか時代劇に登場する悪徳商人の代表格になってしまっているな?と越後屋に同情してしまった。その先に進むと右手に、UFJ銀行の看板が見えてきた。ここで右折するのがキーポイントなのだ。


 大通りである中山道と分かれて右手に進むと、やがてまた大通りに阻まれ、地下道でそれを渡る。渡った先の小津産業ビルの裏側に「於竹大日如来井戸跡」の碑がある。山形から来て働いていた奉公人のお竹が羽黒山行者のお告げで大日如来の化身とわかり、主人に庵を造ってもらって仏に仕えたとのことである。街道にもどり先へ進むと右手のホテル・ギルモンドの手前に「旧日光街道本通り」の石碑が立っているのを確認して一安心。


 大通りにでたが、ここを直進しないで、左手先にある小伝馬町の牢屋敷・処刑場跡を見ておくことにする。今は十思公園となっているが、この付近一帯2600坪に伝馬町牢屋敷があった。牢は座敷牢、大牢、百姓牢、女牢などと身分によって分かれていた。公園内には安政の大獄で捕らえられた吉田松陰の終焉の碑がある。勤皇の志士96名がここに捕らえられ、そして処刑されたとのことだ。しかし遺体は小塚原という千住宿の入り口の処刑場に葬られたようである。また、この公園には江戸庶民に時を伝えた石町の時の鐘も設置されている。


 元の街道にもどり、横山町問屋街に入る。が、その手前の右手の先に北の大歓楽街・吉原があったのだが、寄り道をしないで直進する。問屋街の先で大通りに出て、左手に進むのだが、工事中の地下道を通過したところ方向がわからずうろうろしてしまった。この交差点の北側に関東八ヶ国を治めた関東群代伊那忠治の屋敷・群代屋敷跡の標識がある。そして、その先の浅草橋を渡ると、その袂に浅草見附跡の碑がある。


 JR浅草橋駅を左に見てしばらく進むと蔵前通りと交差する。この右手一帯には幕府の米蔵が八つもあったことから浅草蔵前と称されたと町名由来案内が左手に立っている。街道からはずれて右手の蔵前橋に向かって歩いていくと、左手に浅草蔵前碑と解説板が立っている。そして道路の反対側には、蔵前橋の碑、七代目の首尾の松とその碑、そして解説板がある。このあたりに白壁土蔵づくりの大きな米蔵がデーンと並んでいたのかとイメージを湧かせてみる。


 街道に戻り、しばらく進んで行くと左手にどじょうを食わせる駒形どぜうが現れる。今でも繁盛しているようだった。どぜう屋の前を通過して進み、交差点では前方のY字路を左手に進む。すると雷門の正面にでる。この付近に最初の一里塚があったとガイドブックにあるので、雷門前の観光センターに入って聞いたところ、「以前にも何人かの人に聞かれたがそんなものは聞いたことが無いので分からないね」、と年配のおじさんが答えてくれた。ということで、一里塚探索はあきらめ、仲見世通りに入り浅草寺を見物することにした。大勢の観光客で混雑し、外国人も沢山いるのには驚いた。また、五重の塔がそびえる景色は日本的でグッドだった。


 街道にもどって進むと、仲見世通りとは打って変わって人か閑散としていた。丁度、腹が空いてきたので昼飯にすることにし、隅田川沿いの公園に入った。木陰のベンチはどこも先客に占められていたので、止むなく川沿いの椅子に腰を下ろした。初夏の日差しを浴びつつおにぎりを頬張り、お茶を飲む。「う?ん、最高!」と心内で叫ぶ。


 あまりのんびりもできない。昼食を終えて一休みしたら、トイレによって千住へGO!だ。公園の端の言問橋の通りで斜め右の通りが街道だ。まっすぐに伸びた通りの左手の中には新吉原や山谷があるのだが、より道しないで街道を進む。山谷付近にくると、自転車とともに歩道に倒れて酔いつぶれている人がいた。やがて右手に桃太郎便の看板が目立つ大きな交差点にでる。汨橋の交差点だ。いったいどこに橋があったのかと思いきや、明治通りが元は二番用水という小川だったそうで、この先の小塚原の刑場に送られる罪人は、二番用水を渡るこの橋で浮世の別れと汨したところから名付けられたとのことである。そういえば東海道にも鈴ヶ森の刑場の手前の橋も涙橋と言われていたことを思い出す。この汨橋を超えるとその先は小塚原であり、千住宿に入る。



(00日光道中) (02千住宿)

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