19:徳次郎宿(とくじら)
・人口653人、家数168軒、本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅籠72軒
・下徳次郎、中徳次郎、上徳次郎の三宿を合わせて徳次郎宿といわれる
・日光・久次郎村より移住してきたことから外久次郎村、または遠久次郎村といわれていた
・新田徳次郎なる者が居住していたことから徳次郎の文字となる
・当初は上徳次郎村だけだったが、中徳次郎、下徳次郎、その他の村ができ徳次郎六郷となる

 徳次郎---一里塚---石那田---杉並木寄進碑---大沢 8.9km
 2006年5月4日、6月11日





 17時00分、右手の奥に富屋小学校が見えてくる。ここから先が下徳次郎宿だ。民家はあるが宿場だった面影はまったく残っていない。街道を暫く進んでいくと交差点の右手にバーミヤンの看板が見える。「へえ?こんな所にもファミレスがあるんだ」と感心する。この交差点付近が中徳次郎宿だが、街道筋の面影は残っていない。ちなみに、下徳次郎宿、中徳次郎宿、それぞれに本陣はあったのだがその面影は見当たらなかった。


 中徳次郎宿を後にして1km位進んでいくと、右手に大きな神社が現れる。その昔、日光山の久次郎村より移住してきた時に、二荒山より知賀都明神を勧請して創建した智賀都神社だ。鳥居の後ろには樹齢700年といわれる大欅が二本ある。この神社だけが往時の風情を残している感じだ。街道をその先に進むと道路の中に中央分離帯があり、そこに小さな杉の木が植えられている。徳次郎六本杉の札が立てられている。昔はここに六本の杉があったので、それを復活させようとしていることは分かるが、杉の木が大きくなったらチョッと窮屈なのではないかな?と老婆心ながら危惧してしまう。その後は何もなく、もくもくと街道である国道119号線の歩道を進む。


 やがて見晴らしがいい所になると遠くに山々が見えてきた。その先に進むと民家が並び左手には床屋が現れる。ここが上徳次郎宿だ、17時30分、バス亭上徳次郎の前に立つ。しかし、見た範囲ではここも街道筋の面影はなくなっている感じだった。今日はここまでにして帰宅することにする。だいぶ足も痛みだしてきたので動くのが億劫になる。バス亭をデジカメに納めていると、バスのクラクションがしてバスがきた。宿場内を見る暇も無くバスに乗ると、乗客は私だけであり途中まで貸し切り状態だった。宇都宮に着くと昨夜食えなかった餃子を土産に買い、新幹線の人となった。


 6月11日、8時10分に宇都宮宿の旅籠、東ホテルをたち上徳次郎宿に行くバスに乗る。宇都宮駅からのバスの行き先に3パターンあるが、その違いを理解せずに乗ったため、小雨が降る中を下徳次郎手前から上徳次郎宿まで歩くはめになってしまった。ハンディを背負ってしまった感じだが、それもまた楽しからずやだ。何故なら、今回で日光街道はあがりとなるから心が弾んでしまうのだ。曇りの予報が雨となってしまったが何のそのだ。


 10時15分、再び上徳次郎宿のバス亭前に立ち、大沢宿目指して進んで行く。江戸時代の日光道中絵図によるならば本陣が宿場の中央の右手に図示されているのだが、本陣跡を示すものは何もなかった。その先に進むと、家の前に屋根のある建物があった。井戸の屋根のような感じなのだが・・・・、一応デジカメに納めておいた。(2007年10月8日、門構えのある相場さん方を訪問して本陣跡を伺ったところ、本陣跡はヘアーサロン・オオクサの斜むかいの家の所であること、その右隣の相場さん方が脇本陣跡であり、本陣跡の右斜め前の館野さん方が前本陣跡であると、現場まで案内して教えてくれた。やはり現地の方に伺うのが近道だなと実感した。相場さん、いろいろご説明ありがとうございました。)


 さて、上徳次郎宿を後にして暫く先に進んで行くと、右手の丁字路の角に石那田の一里塚が現れる。夏草に囲まれて賑やかだったが、解説の立て札は字が消えかかっていて読めなかった。道路の反対側に戻って良く見ると、田んぼの淵にこんもりとした土饅頭があった。何も解説はないが、たぶん左手の一里塚跡だと思える。一里塚を後にして先に進むとY字路を右に進み田川大橋(石灘の大橋)を渡る。遠くに杉の木があるように見えたのでいよいよ杉並木かと思って近づくと相変わらず桜と檜の並木だった。


 石那田のバス亭を通過する。この辺りは見るものもなく、そぼ降る雨の中、国道119号線脇となった街道をもくもくと歩く。今市に入ると「ようこそ杉並木の街今市へ」が現れる。


 すると突然ガイドブックには載っていないY字路となる。ガイドブックの地図では直線で進むはずなのだが、「え?、どうするのよ俺」となってしまった。車道の左端にたたずみ、傘をさしつつGPS地図を見るためPDAを取り出しONにする。がなかなか現在地が出てこない。イライラしながら雨の日はGPSもだめかもしれないな?と思案する。諦めようかと思ったところでGPSの地図が標示され、左にいくバイバスが出来ていることが分かった。どうやら後から左手にいく道が出来たようだ。GPS地図はこのときとばかり威力を発揮した。早速木々で覆われた薄暗い旧街道へと入ってみる。カメラでとったら夜のような暗さに写ってしまった。


 やがてその茂みが開けた中を進んでいくと杉並木寄進碑が左手に現れる。「おお、これが寄進碑だ」。雨に濡れた雑草に覆われているので近づきにくいこともあって、寄進碑に書いてある文字は読めなかった。この杉並木は武州川越城主・松平正綱、信綱父子が20数年かけて20万本の杉苗を日光道中、壬生道、会津西街道に植えたものだそうで、この寄進碑は日光神領との境界に立てられたので境石とも呼ばれたものとのことだ。今でも1万5千本あまりが残っているようである。


 杉並木の街道は舗装されているがバイバスの車道があるためか車も人もいない。たまにズルしたように車が2台程きたが、ほぼ私が貸し切って歩いている感じだ。ガイドブックには車が通るためのんびりとは歩けないと書いてあるので、随分違った趣だ。高さ数10mもある杉の木立の中をゆうゆうと歩き、やがて杉並木が切れるとその先は大沢宿だ。



(18宇都宮宿) (20大沢宿)

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