02:千住宿(せんじゅ)
・人口9956人、家数2370軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒
・芭蕉の「奥の細道」の旅は千住大橋の船着場から始まった

 千住---千住新橋---御成橋跡---水神橋---草加 8.6km
 2005年5月28日





 汨橋の交差点を渡り、その先の陸橋を直進して降りると日比谷線の南千住駅が右手に見える。反対側の左手の奥に大きな地蔵が見え、ブロック塀に小塚原刑場跡、首切地蔵・延命寺の標識がある。扉の奥に入ると小塚原刑場の歴史が解説してあり、220年間に20万人の重罪人の屍が葬られたとのことである。しかも、ぞんざいな埋葬なので、野犬やイタチが死体を食うという修羅場だったと解説してある。この地蔵は高さ3.6mもあり、1741年立てられた。安政の大獄で処刑された橋本左内や吉田松陰、桜田門事件の浪士たちなど国事犯はほとんどがここに葬られたとのことである。鈴ヶ森刑場よりもはるかに処刑者が多いことに驚いた。そういうこともあって大きな地蔵で怨念を封じ込めたのかな?などと推測をしてみた。合唱!


 この刑場の隣には回向院という寺があり、そこには吉田松陰など安政の大獄で処刑された人たちの墓が並んでいる。また、鼠小僧、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎など有名人の墓もある(鼠小僧以外はまったく知らないのだが・・・・)。


 回向院を跡にして南千住の商店街を暫く進むと国道4号線と合流する。その合流点にあるのが素盞雄(すさのお)神社だ。ここの境内には小塚原の地名となった塚がある。その塚には昔、瑞光を発して二人の神が降臨したとのことである。また、この境内には奥の細道への旅立ちに当たって読んだ句「行春や鳥啼魚の目は汨」の句碑がある。しかし、ここは橋から逆方向に離れているので懐疑的になりシャッターを押すことをケチった。失敗した!


 千住大橋を渡ると、左手の橋の袂に公園があり、そこに「おくのほそ道矢立初の碑」がある。この公園あたりに当時は船着場があって、芭蕉はここから歩き始めたとのことである。国道にもどり、その先のY字路を右手に進むのが旧日光街道である。街道の右手には芭蕉像、千住宿の道標、幕府御用市場だったやっちゃ場跡の解説などがある。青物問屋のセリの声がやっちゃやっちゃと聞こえたことからやっちゃ場というようになったとのことだ。


 やっちゃ場当時の屋号がかかった旧道を進み、やがてやっちゃ場北詰の看板を通過すると、大通りと交差しその先は千住仲町商店街となる。仲町商店街を暫く進むと、再び大通りと交差する地点に出る。その右手に一里塚跡がある。左手には高札場跡がある。紛れもなくここは日光街道であることを実感して感動した。


 交差点を直進して進むと左手に問屋場跡があり、暫く進んだその先の100円均一店の自転車置き場の中に千住本陣跡の碑もあった。商店街の道路には当時を忍ばせる絵が埋められてもいる。


 その先の公園には千住宿史跡の案内があり、また、当時からの紙問屋であった横山家などが保存され、街道筋の面影が残されている。


 荒川の土手に突き当たる手前で左に入り、国道である荒川新橋に出て荒川を渡る。その先で、橋の袂の土手を左に進んだが、どこが旧道になるのか目印の地蔵堂が発見できずで大混乱。GPSで検出すると善立寺の横の道が旧街道らしいので、ここを進むことにした。ここで再びアクシデント。旧街道の入り口であり、善立寺の前の早川製作所を撮ったところで、デジカメの電池がなくなり使用不能に。うへ?!予備電池をやはり持つべきだなと反省し、インスタントカメラを買うことにした。すぐ先にコンビニがあったのでカメラを買って暫く進むと、左手に地蔵が現れた。以前の水害により400mも奥の、ここ「子育八彦尊道」の石標のところに移設されたとのことだ。だから今は川を向いて立っているのだといわれている。


 東武伊勢崎線のガードを潜り、環状7号線を渡り500m位進むと左手に将軍家御成橋跡の標識がある。この付近は将軍の御鷹場で近くの安穏寺が御膳所となったとのことだ。その500m先の右手に一里塚があるとガイドブックにあるので、うろうろと戻りつつ探したがみあたらなかった。残念だ。だいぶ疲れてきたので近くのコンビニでウイダーインゼリを飲み、体にカツを入れ再び歩く。途中増田橋跡の碑を発見。その先に進むと左手前方に足立清掃工場の高い煙突が見えてきた。


 西保木間3の所で右斜めに進み都営住宅の前を通過するのが旧街道とのことだ。元の通りと合流し、国道との立体交差を通過した先で大通りと合流して左手に進むと水神橋にでる。その先に進むと右手に浅間神社が現れる。そしてその先に進むと右手に火焙り地蔵堂がある。この辺りに、昔は刑場があったことからこの名があるとのことだ。その先は草加宿だ。



(01日本橋) (03草加宿)

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