20:大沢宿(おおさわ)
・人口278人、家数43軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠41軒
・1617年日光御鎮座の後、街道が開け大沢村改め大沢宿となる

 大沢---水無一里塚---七本桜一里塚---和尚塚---今市 7.8km
 2006年6月11日、2007年7月7日





 12時45分、左手から来る鹿沼道と合流し車道となった街道を進み大沢宿に入る。左手に本陣があったのだがそれらしい建物は見当たらない。暫く進むと歩道橋がありその先に大沢小学校がある。ここは将軍が御社参のおりに御休所となった竜蔵寺跡である。寺は明治初年に反対側の台地に移ってしまっている。宿場内には街道筋の面影は何もなく、ただ民家が集まっているだけにしか見えないのが残念だ。(2007年10月8日、江戸時代の大沢宿の様子を描いた絵図をたよりに、宿場の中ほどで、街道の左手にあり、かつ街道から奥まった所にあった本陣跡を探したら大島さん方がその条件に合っていた。訪問してみたが留守だったので話は聞けなかった。確度は高いと思うのだが確証がない・・・・・。近所の方に聞いても本陣跡について知っている方は残念ながらいなかった。)


 宿場を跡にして暫く進むと杉並木の途中で右手入る道が現れる。その道を暫く進んでいくと左手に御殿開田之碑が水田の横に立っている。ここは将軍が御社参の折りに泊まった大沢御殿の跡で、1624年に造営したが、その後取り払い、再造営、再取り払いとなった所である。最後の留守居役安西氏の孫が明治百年記念に跡地を開田した記念碑が先の開田之碑だ。水田は今年も田植えがなされていた。街道に戻って進んでいくと右手に大沢御殿跡の案内板があるのだが、それを忘れて左手の歩道を進んでしまったので見落としてしまった。


 左手の歩道は雑草に覆われてしまい、雨の日などはとても歩けるものではないので、車道におりて進むことにした。暫く進むと右手の杉並木の奥に一里塚が現れる。ここでは一里塚に杉が植えられているとのことだ。街道の左手を見ると向こうにも一里塚か残っている。日本橋から32里目の水無の一里塚は左右とも健在だ。一里塚を後にして進んでいくとやがて水無村を通過する。地名については、名主の宅地にあった梨が甘美にて水気が多いところから水梨村と唱えしが、いつのころからか水無村と書くようになったとの説がある。


 街道の周辺は人気もない水田や林だった。やがて左手に手打ちそば・うどん屋たつみが現れる。丁度いいタイミングだと思い、昼食タイムにして舞茸そばを食べる。冷えたむぎ茶が美味しくてお代わりして飲んでしまった。店を出て暫く進むと、街道は車道と分かれ右手の細い道に入る。再び杉並木道となるが、道は舗装されておらず、往時のままのようで水たまりもある。またまた貸し切り状態の杉並木はのんびり歩けて気分は上々だ。


 やがて杉並木が切れ、車道に合流するが600m位先で再び杉並木道に入る。ここから先は舗装された道となっている。入り口から1.3km位の右手に桜杉という、杉の割れ目に桜の木が合体している珍しい樹木があるとのことなので、探しつつ歩いたのだが見つからなかった。ところが、浮浪雲さんのHPには左手にあるとのことなのでガイドブックの誤記で見落としてしまった。(2007年7月7日、再度歩いて見たところ、やはり街道の左手に、小川の側に桜杉があった。白い標柱が街道の外側の道路に面しているので、街道の左手を注意していないと見過ごすことになりかねないなと思った)


 その先の七本桜の一里塚は発見できた。右手にある塚には杉の大木があり根元が大きく空洞となっているため、並木ホテルと言われているとのことだ。今日、その空洞内にダンボール箱が何故か置かれていた。その様子をデジカメに納めたが、雨のため暗くていま一つ分かりにくい(2007年7月7日に撮りなおしたものを載せておきます)。なお、反対側の塚も残っている。


 一里塚を後にして暫く進むと、杉並木を横断している東武日光線のガード下を通過することになる。更に進むと左手に和尚塚があるのだが、車道が低いため土手の上にあるのでなかなか見つけられない。これは、という繁みがあったので土手を登っていくと、繁みの中に和尚塚と戊辰戦争無名戦士の墓の解説がある。官軍・板垣退助の土佐藩隊と幕府軍とがこの地で激突し幕府軍は負けて退却、約100人戦死したとのことである。土地の人達が散乱していた20数人の遺体を和尚塚に埋葬したと記してあった。日光は戊辰戦争の激戦地だったんだなと今になって知った。合掌!和尚塚の土手を降りて街道を進んでいくと、その先は今市宿だ。



(19徳次郎宿) (21今市宿)

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