11:野木宿(のぎ)
・人口527人、家数126軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・野木神社の周りの村がやがて街道側に移住して野木宿となる
・小さな宿場だったので通行量が増大した後期には助郷村23ヶ村が割り当てられた
野木---松原町---間々田 6.6km
2006年1月9日
9時50分、古河駅よりタクシーに乗り、野木神社の鳥居の前に立つ。神社まで行くとだいぶ先なので、鳥居をカメラに納めて先に進むことにする。しかし、ここの手前は左筑波と呼ばれた地点なので少し戻って歩いて見たが、周りに家が建ち過ぎて筑波らしい山が見えなかった。諦めて前に進む。 |
国道4号線と合流し500m位先に進むと、左手の民家の塀の前に日光街道野木宿の立て札が現れる。この家が本陣だった熊倉さん宅だ。その斜め向かいにある、井戸に屋根のある家が脇本陣だった熊倉さん宅だ。両家とも建物は新しく街道筋の面影はない。 |
その先の左手には野木神社の別当寺と言われる満願寺がある。宿場内を進んでいても繁華街があるわけでも無く、往時は宿場あったことを示すものは本陣跡にあった立て札だけであるので、何となく通り過ぎてしまう宿場だ。その宿場の端を示しているのが左手に現れた観音堂である。 |
観音堂の先あたりは右に筑波山、加波山が見え、左には上州の山々、日光山まで眼前に見ゆと昔は言われたとのことなので見渡したが、左手に上州の山々らしいのが見えた以外は全く見えなかった。だだっ広い関東平野が広がっているという感じだった。松原町の辺りでは右手に白壁の門つき家があった。なぜこのような門があるのかが解せなかったが。 |
街道である国道4号線を暫く進んでいくと友浦の交差点付近では、左手前方に雪をかぶった日光山のような山々が見えていた。 |
やがて街道の左手に法音寺が現れる。ここの境内には芭蕉句碑があり「道ばたのむくげは馬に喰れけり」と刻まれている。芭蕉がこの地で詠んだものかと思いきや、上方に向かった旅の途中、小夜の中山辺りで詠んだものとのことだった。また、法音寺の向かいには八幡神社がある。ここは参詣に向かう将軍の小休憩所だったところだ。 |
街道の左右に広がる畑を見つつ、もくもくと街道を進んでいくと乙女という可愛い地名の場所が現れる。由来は分からない。暫くしてその先では、左手に黒板塀の屋敷跡のような建物が現れる。その先で街道はゆるやかに左カーブするが、その先の右手に間々田宿の一里塚「逢の榎」が現れる。江戸からも日光からも数えて18番目の中間地点の塚になっていたことから、また塚には大きな榎木が育っていたことから、いつしか「逢いの榎」とよばれるようになったとのことだ。立て札には往時の写真が載っている。この一里塚を過ぎると、その先は間々田宿だ。 |