07:幸手宿(さって)
・人口3937人、家数962軒、本陣1軒、旅籠27軒
・日光街道と御成道との合流地点なので賑わった宿であった
・雷電の神体を田の中の社に祭っていたことから田宮という地名だったが、元禄のころ幸手に改名した
幸手---権現堂堤---弁財天・一里塚---栗餅屋跡---栗橋 8.1km
2005年11月6日、2006年1月8日
12時58分、志手橋を渡るとその右手に神明神社が現れる。ここには眼病に効くといわれたたにし不動尊が合わせて祀られている。また、高札場もここにあったととのことである。その先の交差点を左手に進み一色稲荷神社前で北に行くのが江戸初期の日光街道だった。中期以降になると街道は直進して進むように変わったとのことである。ガイドブックの地図ではひとつ先の福田屋の所を左折するようになっているが、そのルートだと一色稲荷神社前を通過しないので違っているようだ。 |
街道を更に先に進むと右手に小さな公園が現れる。ここは問屋場跡だったと解説があった。トイレによって暫し休憩をとる。足の痛みが辛くなってきたがまだ大丈夫だと言い聞かせる。街道にもどり左手先の鰻屋の横に掲示板があるので近づいて見ると、なんとそこは幸手宿の本陣・知久家跡だと解説してあった。明治天皇も東北巡行の折りに宿泊したとのことである。ガイドブックにも記載されていない所なので嬉しくなる。 |
宿場内を先に進み街道が右にカーブする手前の交差点を左手に入って200m位進み、更に左折して50m位戻ると雷電神社がある。中世のころ、この地が田宮庄と呼ばれた由縁のある神社だが、その昔、水田だった周辺は住宅地に変わっていた。街道に戻ろうとしていると、ついにポツリポツリと雨が降ってきた。痛い足を引きずって雨の中を歩くのは無理だと思い、幸手駅に向かった。すぐに雨は本降りとなり、傘をさして勘をたよりに路地裏を駅まで歩いた。14時16分東武鉄道の幸手駅に着いた。向かい合って座る普通の電車なのでビールを飲むわけにもいかず、行儀よく居眠りして家路についた。 |
2006年1月8日、9時16分、再び幸手駅前に立つ。快晴だが寒波が来ているようで極めて寒くシャッターを押す指がうまく動かない。前回歩いた路地裏を通り街道に戻る。街道は進行方向正面に正福寺見つつ右にカーブするが、その右手に幸手の一里塚跡の掲示板がある。街道はその先で鉤の手のように左に折れて進んでいく。その先の左手に、名物のしほがまという菓子を造っていた大坂屋(樋口氏宅)があったというが、樋口氏宅が幾つもあるので店だった場所は不確かだ。 |
幸手宿を後にして暫くすると国道四号線と合流する。すると右手の先に権現堂堤が見えてくる。春は桜並木で有名なところらしいが、冬の今は何もない。しかし昔の堤工事で人身御供があった所とあるので、わざわざ迂回して見てみることにした。恐るおそる堤に登って見ると巡礼の碑があった。解説によると、1802年、利根川の決壊で堤の工事をしているところに通り掛かった巡礼親子が自ら人柱を申し出て逆巻く流れに身を投じたという説と、工事は無駄だといったことに怒った人夫達が親子を川に投げ入れたという説があり、どちらが本当かは分からないとのことだった。悲惨な事件があったのだなと暫し感嘆する。合唱! |
堤を進み街道に戻り行幸橋を渡る。渡った先で橋の袂を左手に進み、すぐに右折し暫く国道と分かれて平行して歩く。街道を進んでいくと1775年建立の道標が現れる。「左 日光道」「右 つくば道」と刻まれている。この付近は外国府間(そとごうま)村という変わった地名なのだ。 |
道標を後にして次のチエックポイントである弁財天をめざして進んでいくと、水田の中の直進の道が前に開けてきた。そんな所を歩いているつもりがなかったのでパニクッてしまった。GPS地図で標示して見ると左にずれて歩いていたことが分かったので、田んぼの中の道を右手に進み街道に戻ることができたと思った。(どうも、手前の雷電宮のY字路を左に進み、そのまま歩いたのがいけなかったようで、左側に進みその先で右側に戻り国道の土手下を進むしかないようだ。当時の街道は国道に沿って左右に蛇行して続いていたが、国道工事で消失してしまっている。ガイドブックの地図は現在の道に合わせて書いていないので、誤読してしまったのだ) |
街道に戻って(戻ったつもりでいたが、ひとつ左の通りを歩いていた)暫く行くと右手の墓地の先、国道脇に祠が見えた。墓地を回り込んで近づいてみるとやっぱり弁財天だった。しかもそこは、江戸から14番目の一里塚跡であり、塚の上に弁財天を置いたとのことだった。やがて街道は国道に合流するが、新幹線の所で国道下にでたので暫くは国道歩きだと思い、栗橋大一劇場(ストリップ劇場)前を直進して国道を歩いた。 |
国道125号線との合流地点を過ぎた所で間違いに気づき、「ええっ、戻らなければならないの!」で愕然とする。嘆いても始まらないので、大急ぎで大一劇場まで戻り、華やかな大一劇場の音楽が漏れ聞こえてくるなかを、国道の左手に入り街道を足早に歩く。すぐ先の右手には香取・八幡合社がある。暫く歩き国道と合流する手前には名物だった栗餅屋の柿沼家がある。庭横に会津見送り稲荷がある。この地で、会津侯の使者が宝箱を忘れて切腹しようとしたのを稲荷に教えられ助けられたことから祠が造られたとのことだ。 |
街道はその先で国道に合流し、その後右側に渡って125合線との合流地点を進み、トンネルを潜って国道の左に回って行くことになる。すると、その先は栗橋の宿場となる。 |