09:中田宿(なかた)
・口403人、家数69軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠6軒
・人馬の継立て業務を半月交代で栗橋宿と行っていた合宿である
・利根川の河原にあった宿場であり、利根川改修工事で元の宿場は跡形もなくなった

 中田---鶴峯八幡---茶屋新田---一里塚---古河 5.9km
 2006年1月8日





 14時00分、利根川橋を渡り右手にいってみるが元の宿場を示すものは何もみあたらなかった。大正、昭和の利根川改修工事で宿場はもっと北側の地に移り、元の宿場跡は河川敷になってしまって、当時を示すものは何も残ってない。街道にもどり左手に進んでいくと右カーブの所の左手に「房川渡と中田関所跡」の掲示板があり、利根川の渡船場を房川渡しと読んでいたこと、また当初の関所が中田宿側にあったことなどを解説している。その先に進むと、左手の火の見やぐらの手前に「中田宿」の掲示板があり、利根川の河原にあったことや栗橋宿と合宿として造成された宿場であることなど、前の掲示板と似たようなことを解説していた。


 中田宿を跡にして街道を進んでいくと、左手に鶴峯八幡神社が現れる。源頼朝が奥州征討のおりに祈願し、その後鶴岡八幡を勧請したことから鶴峯八幡と称されようになり、後に、新田義貞も北条追討の折りに祈願したとのことである。


 街道はやがてJR宇都宮線の踏み切りを渡り、直線的な通りとなる。広い歩道の中央には小柄な松が植えられている。暫く進むと右手に「中田の松原」の掲示板が出ており、昔、この通りは中田の松原と呼ばれ、約一里に渡って松並木が続いていた名所だったと解説してある。松が再び大きくなれば名所になるかもなと独り言をいう。


 直線的な通りが終わると、その先の古河二高のグランドの隅に一里塚があるはずなので、探して歩いていると結構高い石垣の上に学校らしき風景が見えた。しかたなく、石垣をよじ登って見ると、確かに一里塚があった。道の改修のおり、道を大分低くしてしまったためであろうと言われている。なおこの石垣の上には柵があり鉄条網がまかれているので十分注意することが必要だ。一里塚を確認して街道を進んでいくと、その先には学校の正門があったが工事中でしまっていた。暫く進むと大きな通りと合流する丁字路となる。右手に進んでいくとその先は古河宿だ。



(08栗橋宿) (10古河宿)

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