22:鉢石宿(はついし)
本陣2軒、人口、家数などは不明
芝田善平の宅地に鉢を伏せたような石があることから鉢石村と呼ばれていた
戊辰戦争の時には官軍の板垣退助と幕府軍の大鳥圭介が話し合って日光を戦火から守った
鉢石---東照宮
2006年6月12日
11時00分、国道119号線と合流してJRのガードを潜る。右手に小道のようになって残っている街道を進む。街道は再び国道と合流して宿場に入り上り坂の道を進んでいく。東武鉄道・日光駅前を通過し、500m位進んだ右手の奥に竜蔵寺が現れる。この寺の奥には戊辰戦争で戦死した官軍の芸州藩士の墓がある。 |
その裏手には稲荷神社があり、境内に西行戻り石という大石がある。この石の上に籠を背負い鎌を持った小童にどこへ行くのかと西行が訪ねると、「冬萌きて夏枯れ草を刈りに行く」と答えた。「それは何ぞ」と聞くと「世にあまねく知れる麦という草を知りたまわずや」と笑われたので、ここより引き返したとのことである。また隣には西行の歌碑も立っている。 |
街道に戻り坂道を進んでいくが、右手にあった入江本陣跡は見当たらない。更に進んでいくと、右手に街道筋の面影を残すかのような店が並んで現れる。その先の駐車場のような空き地に松の木が1本立っているが、そこが高野本陣跡である。庭の隅には芭蕉句碑があるらしいのだが見落としてしまった。敷地奥は高野さんの自宅となっている。道路の向かいの佃煮屋のおばあさんが「高野さん宅は昔は本陣だった」と教えてくれたので間違いないと思う。 |
その先に進むと日本生命の横に、宿場の名の起こりとなった鉢石が現れる。その昔は坂本と呼ばれていたが、東照宮造営を契機として鉢石宿となったとの解説が付いている。 |
その先に進むと左手に日光金谷ホテルの看板が掛かった大きな土産物屋が現れ、右手には天海上人の像が現れる。街道は大谷川に架かった日光橋を渡るが、隣には色鮮やかな朱色の神橋がある。以前は、一般の人の通行を禁止していたのだが、今は通過できるが扉が閉まっているので通り抜けできず、対岸の河原に降りるようになっている。遠足できていた中学生達が楽しそうに河原に降りて行っていた。大谷川に架かった日光橋を渡ると突き当たりには杉並木寄進碑がある。遂にここで日光街道は終わりとなる。 |
日光街道は終わりとなったが、ここまで来たので日光東照宮に関連した史跡を見るために先へと進む。東照宮の参道の南端に進んで行くと、日光を火事から守るために明治維新まで半年交代で派遣されていた八王子千人同心の顕彰碑が現れる。また、二荒山神社の参道の南端左奥に進むと、日光奉行所跡が現れる。 |
神社の参道を進んでいくと二荒山神社本殿が現れる。戻って右手の東照宮に進んでいくと三猿、眠り猫、陽明門、など定番の見物が現れる。ウイークデーなので見物人は少ないだろうと思っていたのだが、大勢の日本人や外国人、遠足の小学生、中学生の観光客で混雑していた。しかし、眠り猫は大勢のカメラなど無視して優雅に寝ていた。 |
最後に一番奥にある家康の墓を遠足ではしゃいでいる小学生達と一緒になって見て回る。13時10分、遂に東照宮の見学も終え日光街道踏破となった。日光街道を歩き通したことを祝して、東武鉄道の特急スペーシアに乗り込むとさっそくビールとスペーシア特製たこ焼きで乾杯した。日光奉行所跡、本陣跡、貸し切りのような杉並木を思い出しながら、眠り猫となった(つもりの)おじさんは浅草まで寝ていた。 |