03:草加宿(そうか)
・口3619人、家数723軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒
・芭蕉の「奥の細道」では草加宿に宿泊したとあるが本当は越ヶ谷宿だった
・草加煎餅は明治8年の資料には記載されていないので江戸時代には無かったようだ

 草加---松並木---蒲生一里塚---青蔵院---越谷 6.7km
 2005年11月5日





 Y字路を旧国道と分かれて左手に進むと草加宿に入り、暫く進むと市役所前に地蔵堂が現れる。今日はこの地蔵堂からの出発だ。10時30分、市役所を後にして進み始めると、左手には豪商と言われた大和屋(浅古家)のどっしりとした黒壁の建物が現れる。市役所の敷地と地蔵堂は以前の大和屋があった跡だそうである。その先、右手に日光街道と葛西道の道標があったので、これが明治44年建設の道路元標かと思い、本物の道路元標を見落としてしまった。残念!天明と明治の大火で古い建物は失われてしまっており、町並みは現代風である。


 しかし、長屋門付きの連子格子の家(藤代家)が残っていた。先に進むと草加煎餅の伝統上の創始者おせんさんにちなんだおせん茶屋公園が現れる。宿場を抜けて旧国道と合流する所の手前、左手にはおせん公園があり、「草加せんべい発祥の地」の碑がたっている。この地で発祥した塩せんべいが有名になったのだと記してある。


 (草加宿内の記述が余りにも少ないので2007年11月18日、再度探訪してみた。連子格子の藤代家の先の右手、きんさんじやの横には明治44年建設の道路元標があり、「千住町へ」、「越ヶ谷町へ」と刻まれている。その先の右手の堀川産業の敷地は清水本陣跡である。歴史民族資料館の方の話によると、宿場内に当時は4つの本陣があって持ち回りで本陣をやっていたとのことだ。その最後の本陣跡が清水本陣だと説明してくれた。絵図に登場する神明神社の横の本陣ははっきりしないとのことだった。今まで本陣跡が不明だったので胸のつかえが下りた気がした。更に進むとおせん茶屋公園があり、その先の左手には元祖源兵衛せんべいの店がある。先に進むと草加宿を開いた大川図書の墓のある東福寺の門が左手に現れる。宿場を抜ける右カーブの所の左手には絵図にも記載されている神明神社がある。このカーブを抜けると左手におせん公園が現れる。)


 旧国道を横断して望楼のある公園に入ると、木立の中で旅姿の芭蕉像が迎えてくれる。街道はここから綾瀬川沿いの松並木道となる。1683年に関東群大伊奈半右衛門が綾瀬川改修の折りに植えたものとのことだ。太鼓橋のような矢立橋の頂上に立つとすばらしい松並木の街道が見渡せる。感動ものだ。松並木の維持をこれからもよろしくお願いしたい。


 川沿いの街道を進んでいくと二つ目の太鼓橋、百代橋を通過しやがて松並木も終わり、橋下のトンネルを潜る。その先でさいかち戸橋の袂を横断して川沿いに進むと、右手の対岸には大木の茂みが見えてくる。


 その先に進むと右手に蒲生大橋が現れ、橋を渡った正面に大木の茂みに見えた蒲生の一里塚が現れる。日光道中で見る初めての現存する一里塚だ。塚には社があり、欅の大木と榎木などが植えられている。これは東側のもので西側の塚は無くなっている。


 再び川沿いに左に進んでいく。右手に道標と不動尊が一体となった珍しい祠が登場する。その先の左手には、草鞋が沢山かけられた祠があり裏側に石像がある。珍しいのでシャッターを押しておいた。ぎょうだい様というものだそうである。先に進むと、やがて旧国道と合流するのだが、その右手に清蔵院が現れる。ガイドブックには書かれていなかったのだが、この山門の竜は左甚五郎の作とのことだ。凡庸な清蔵院を写してしまった。残念!


 退屈な旧国道を暫く歩くと、やがて武蔵野線のガード下を通過する。そして、そこから約1kmほど進むと右手に寺院があり、Y字路となる。ここを左手に進むと越ヶ谷宿に入る。



(02千住宿) (04越ヶ谷宿)

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