16:石橋宿(いしばし)
・人口414人、家数79軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠30軒
・上町、下町、下石橋と町が続き当時は繁盛していたが今は車の往来が激しいのみ
・宿役を努めていた伊沢諸氏はその昔多功城没落時に土着し百姓となった旧家である

 石橋---鞘堂地蔵尊---一里塚跡---陸自駐屯地---雀宮 5.7km
 2006年5月4日、2007年7月7日





 8時50分、JR石橋駅から旧街道に出て国道4号線を300m位戻った位置から、北に向かって街道を進み始める。右手に旧家風の家が現れる。その先には脇本陣だった伊沢写真館が現れる。写真館なので建物は今風になっている。道の向かい側の酒屋の女将さんが水撒きをしていたので本陣の場所について聞いてみたら、「脇本陣は前の伊沢さん方だが本陣は知らない」とのことだった。残念!お礼を言って街道を進んでいくと、その先の左手に門構えのある伊澤家があったので一応デジカメに納めたおいた。ガイドブックでは本陣跡について何も触れていないが、国立公文書館の日光道中絵図によるならば、脇本陣の斜め前あたりにあったと図示されているのでここがそれらしいが・・・・。


 (2007年7月7日、街道沿いのお茶屋主人の伊澤さんに聞いたところ、お茶屋の伊澤さん方が名主であり問屋も兼ねていたこと、向かいのすみうち商店の所が高札場であり、その横のいとうや薬品店の左右を含めた所が本陣の間口であり、その奥のアパートがある辺りに本陣があったとのことだった。本陣だった伊澤家は引っ越してしまったがいとうや薬品店の横に伊澤家の氏神様が移されて祀られていることなどを教えてくれた。また、門構えのある家の伊澤さん方は今は人がすんでいないとのことだった。お茶屋の伊澤さん方は名主問屋だったので行政にも関係しており、往時の古文書も多数あったとのことだった。更に、下石橋の消えた街道についても聞きたかったのだが夕闇が迫っていたので、お礼を言って本陣跡などをカメラに納めた。私が憶測で本陣跡と思っていた門構えのある家は伊澤家だが本陣跡ではなかった。訂正します。お茶屋の伊澤さん、いろいろ聞かせていただき、ありがとうございました。)


 街道を進んでいくと交差点を渡った先の左手に、珍しい赤煉瓦の塀に囲まれた旧家があったので一応これもデジカメに納めておいた。その先に進んでいくと右手に開運寺が現れる。家光など将軍が日光社参の時に泊まる御殿が境内に造られていたとのことである。石橋宿を後にして街道だった国道4号線を進んでいくと交差点の角に有名どころのサラ金の無人店舗が集中してあった。こういうやり方もあるのかと驚いた。


 暫く進んでいくと街道はパチンコ屋の所から右手に入って行くのだが、途中までは進めるがその先は畑や前田製菓の工場で「進めない」と街道脇の家の方が教えてくれた。仕方なく国道4号線に戻り進んでいくと、左手に兜をつけた武者の不気味な顔が登場する。「えっ、何これ」と近づいてみるとラーメン屋だった所で、今は廃屋のようだ。退屈な国道歩きにスパイスを効かしてくれるラーメン屋さんだった。


 前田製菓の工場前を通過してから暫く進むと右手の幼稚園の隣に鞘堂地蔵尊が現れる。その昔、小山・宇都宮合戦があり戦死者の鞘を埋めその上に堂を立て地蔵を安置したことから、このように呼ばれてきたとのことである。その先の左手には鞘堂新田の鎮守である星宮神社がある。


 街道はやがて北関東自動車道との立体交差を通過する。その先の右手奥に一里塚跡があるとのことなので探しつつ歩いていくと、一里塚らしい塚が生け垣の中にあった。大きさからしても一里塚の大きさなのだが、そこは高秀土木工業の敷地内なのだ。ガイドブックの位置とはマッチするのだが・・・・・。後で確かめることにして、カメラに納めて先に進む。(後日、高秀土木社に電話して尋ねたところ、「今までも何回か一里塚ではないかと聞かれたがはっきりしたものがない。あの塚には以前から氏神さまが祀ってある。」という答えだった。国立公文書館の日光道中絵図によるならば、雀宮の一里塚はもっと先、見附手前に図示されており、雀の宮5、6丁目辺りと思われる。ということで、どうやらガイドブックの誤記のようである。)


 「一里塚跡」を後にして街道を進んでいくと、左手に樹木に囲まれた敷地が続くので大学かと思いきや陸上自衛隊の宇都宮駐屯地だった。駐屯地をカメラに納めて暫く進んでいくとその先は雀宮宿だ。



(15小金井宿) (17雀宮宿)

ホーム日光道中>石橋宿