21:今市宿(いまいち)
・人口1122人、家数236軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒
・日光道中、例幣使街道、会津西街道の合流地点であり玄関口として賑わってきた
・今村は宿駅となってから賑わい市が立つようになると今市と改めた
今市---水無一里塚---七本桜一里塚---和尚塚---鉢石 7.8km
2006年6月11日、12日、2007年7月7日
15時25分、左手から来る例弊使街道と合流する地点に立つ。ここは宿場の入り口であり、追分地蔵尊がある。高さ2mもある大きな石地蔵が祠に安置されている。 |
宿場内を暫く進むと右手奥に二宮尊徳を祀った報徳二宮神社が現れる。境内には本殿、その裏に尊徳の墓や像がある。「ただ土を盛り上げてその傍に松か杉を植えるだけでよい」という尊徳の遺言が、立派な墓の横に何故か掲示してある。・・・・・?尊徳は幕府の命で日光神領復興のため今市で仕事を始めたが、3年後の1856年に報徳役所で亡くなったとのことである。 |
街道に戻ると、二宮神社入り口の右斜め前に高橋本陣があったのだが、本陣跡を示すものは何もないようだ。眼鏡屋、電気屋、つくば銀行辺りがそれらしいのだが・・・・。その先に進むと会津西街道とも通じている春日町交差点の左手には日光みそのたまり漬の建物が現れる。その先の市緑ひろばには明治天皇御小休之跡の碑がある。また広場内には昔風な建物の展覧会場もある。 |
(2007年7月7日、本陣跡向かいの婦人服の店「MUSASHIYA」さんに入って聞いたところ、女将さんが「つくば銀行とイシオカ電器店の所が本陣の間口でその裏に本陣があった。今は何も残っていない」と店の前に出て説明してくれた。意外にもすぐに分かったので嬉しかった。お礼を言ってから、つくば銀行とイシオカ電器店をカメラに納めた。やっぱり地元の人に聞いてみるものだなと思った。) |
更に街道を進んでいく左手に連子格子造りの民家が現れる。その先の交差点の左手には宿場の鎮守である瀧尾神社がある。そこを左手に入り、小学校の先で戻るように進むと右手に二宮尊徳が働いていた報徳役所跡が現れる。広い敷地内に建物と尊徳像がある。 |
16時20分、これで宿場内の主要な所は見学したが、これ以上は進めないと判断し今市で宿を探すことにしてJRの駅の近くへ行ってみる。繁華街らしきものがなかったが、小ぎれいな熱海館という旅籠があった。宿泊を頼むとOKしてくれた。ホテルとは違って、旅館もなかなかいいものだった。とりわけ、大きな湯船に一人で入れたのがすばらしい。女将さんの話では、最近歩き旅の方が時々泊まりに来るとのことだった。 |
12日、8時40分、いよいよ最後の宿、鉢石宿を目指して旅籠を出発。前日の雨はあがり今日は曇りの予報だ。瀧尾神社前の交差点を渡ると右手の杉並木に入る。その入り口には解説があり、将軍家の日光社参は4月17日の東照宮例大祭に行われたとか、最後の日光社参は1843年将軍家慶が14万人の大行列で行ったなどのことが書かれている。 |
杉並木に入ると道は舗装されているわけではないが水たまりもなく歩きやすいものだった。暫く進むと日本橋から34里目の一里塚が右手の土手の上に現れる。左手の一里塚も健在だ。右手の土手の上からその奥を見ると大きな水車が回っていたので「へえ?」と驚いた。 |
街道をその先に進むと右手は杉並木公園となっており、古い民家があり、先程の水車も遠くにあった。つでにトイレタイムとした。さてその先に進むと砲弾打込杉という珍しい杉が現れる。幕府軍めがけて官軍の撃った砲弾が杉の幹に当たって炸裂した跡が残っているのである。砲弾打込杉を後にして暫く進むと右手に竜蔵寺跡が現れる。入り口には釣鐘が設置されているが石で出来ているものだった??。 |
街道を更に進んでいくとやがて杉並木は切れて車道と合流する。車道を暫く進んでいくと右手の杉の木の前に10人位の人たちが集まり、何やら聞いていた。街道を歩く会の一行のようでやや高齢者の方々だった。その大きな杉は並木太郎と言われているもので高さが38mもあり並木一美しい杉とのことだ。そしてその先には杉の根元が銀杏の葉のように開いた銀杏杉がある。 |
杉並木が切れた街道を先に進むと左手に明治天皇御小休所跡が現れる。その先には尾立岩という切り立った岩がある。昔、日光の神が宇都宮に遷りし時に蛇体となってこの岩の上に乗り、尾を立て東を指して走ったとのことである。 |
尾立岩後にして進むと交差点にでるが、そのまま直進して行くと左手に杉並木が現れる。反対の右手には芭蕉が奥州街道に向かうために通ったといわれている芭蕉道がある。左手の杉並木に入りJR日光線のガードを潜って進んでいくとその先は日光・鉢石宿だ。 |