10:古河宿(こが)
・人口3865人、家数1105軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒
・足利成氏が鎌倉より移り来て小川の地名を古河に改めた(1455年)
・古河城は無く、城跡には歴史博物館や文学館がある

 古河---松原町---野木 2.5km
 2006年1月8日





 15時35分、古河宿に入り御茶屋口を探して進むと交差点の角に、御茶屋口門跡の石碑が現れる。将軍家が日光に参詣するときの宿泊・休憩所だった古河城入るために、ここを左に進み御成門へと向かったとのことである。将軍と同じように左手に進んで城に向かってみると、右手の路地にはぬた屋という当時の面影を残している鮒甘露煮の店があった。


 さらに進んでいくと城跡あたりには古河歴史博物館や文学館があったが、城跡そのものは無いようだ。小学校の横を通りクネクネと進んで正定寺に着く。この寺は藩主であった土井家の菩提寺で、土井利勝夫妻など歴代の立派な墓が並んでいる。また、芭蕉の句碑「春もややけしきととのう月と梅」が境内にあるとのことだったがみつからなかった。正定寺から街道にもどろうと歩いていると、途中で白壁の大きな長家門の屋敷が現れる。今城氏の表札が出ていたが、貴重な文化財だな?と感心した。


 街道に戻ると、右手には高札場跡が現れる。その向かい・街道の左手には本陣跡の石碑が草に埋もれいる。繁華街となった街道を200m位進み左折する。ここは曲の手で100m先で右折する造りとなっている。途中の左手には曲の手の入り口にあった当時の道標があり「左日光道」と記されている。その横には曲の手の解説がある。なお曲の手の入り口左にあり脇本陣だった太田屋旅館は見当たらなかった。


 街道はトミヤという店の前を右折して進む。うなぎ割烹の武蔵屋本店とか、土蔵づくりの店とか歴史のある建物が宿場外れまでに現れる。


 やがてゆるやかに右カーブして大通りと合流する。ここからは車道を歩くことになる。だいぶ陽が傾いて夕闇が迫ってきた。これといって見るものもなくもくもくと歩いていると、左手にチカチカと光る電飾にかこまれたビーナス像が現れる。結婚式場らしい。その先に進むと野木神社の鳥居が現れる。この先は野木宿だが、暗くなりすぎているので野木宿に入るのを諦めることにし、小山宿の旅籠に向かうことにした。だが、路線バスがあるだろうと思って探したがない。タクシーが通るかなと思って待っても通らない。ええ?どうしよう?と思考停止。近い駅はどこかとGPS地図を見たが上手く操作できず。しょうがなく古河宿まで歩いて戻ることにする。歩いたことが無駄になってしまった、判断の甘かった、と反省しつつ古河宿に戻る。JRで小山駅に向かい駅前のステーションホテルにたどり着いた。



(09中田宿) (11野木宿)

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