13:小山宿(おやま)
・人口1392人、家数423軒、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠74軒
・田原藤太秀郷が平将門を追討するために東国に下りここに城を築いた伝承がある
・秀郷の子孫である小山氏が城を守り続け、その後は北条氏の持城となった

 小山---日枝神社---喜沢の追分---一里塚---新田 5.0km
 2006年5月3日、11月24日





 10時00分、小山駅に着くと街道を戻り小山宿の入り口である一里塚跡へと向かう。天神町1丁目の角手前の永島銅鉄店前に一里塚があったそうだが、それを示す石碑などはなかった。前回、来た時は暗かったこともあってこの店を通りすぎてしまい、ずっと先の店(米屋さん?)のおじいさんに教えてもらい位置を確認していたので今日はすぐにたどり着けた。街道を進んでいくと、左手に須賀神社の鳥居が見える。しかし神社そのものはだいぶ奥にあるので入り口を見るだけにする。


 街道をその先に進むと左手に「明治天皇小山行在所」の石碑が現れる。ここは脇本陣跡であり往時の玄関が後方に見える。子孫の高橋さんが住んでいるとのことだ。その先の右手にある常陽銀行が問屋場跡であるがそれを示すものは何もない。常陽銀行の斜め向かいの駐車場が本陣だった小川家の屋敷跡とのことだが、そこではマンション建設の工事が始まっていた。その横には白壁の古風な建物がある。


 宿場の中心を見たので家康軍が軍議を開いたという評定坂を見ようと脇本陣手前を思川に向かって下って行くと佐野道の道標があった。そこを右手に回り込んで見たが坂はあっても軍議を開いたという石碑のようなものは見当たらなかった。上杉征伐に向けて進軍してきた家康軍はこの地で石田三成の挙兵を聞き、反転して石田三成打倒に向かうことを評定したという地がここなのである。この評定においてかの山内一豊は家康に味方することを誓ったのだそうである。市役所の敷地内も通過して探したが見当たらなかった。残念!


 (11月24日、評定跡が市役所の敷地内にあると小山市や他の方のホームページに記載されていたので、それを確認しに再度訪ねてみた。確かに市役所の建物の左手にあった。庭の植木で囲まれた中にあるので、そこにあるはずだとなれば発見できるが、パッと見では見落としかねない様でもあった。ガイドブックでは評定坂と坂を強調していたが、どうやら坂は関係なさそうだ。)


 評定跡探索をあきらめて城山公園に向かって進んでいくと、脇本陣で会った方が先に公園の入り口にある解説を読んでいた。挨拶するとこの方も街道をゆっくり歩いているとのことだった。私より年配の方のようだ(私はまだまだ現役で働いている)。解説によると城は江戸幕府成立後本多正純が城主となったが、その正純が宇都宮に転封となりその後は廃城となったとのことである。城跡から思川の見える所で記念に風景を撮っておいた。


 城跡を後にして街道に戻ってきたが、小山に来たついでに会社の小山工場を見ておこうと足を延ばしてみた。往復で約3kmもあったので寄り道し過ぎたかなと先行きに不安を感じた。街道に戻って先に進むと左手に小山氏の祈願所だった興法寺が現れる。


 街道は天気に恵まれやや暑い位だった。昼過ぎとなったので昼飯を喰うのに適当な日陰を探して歩いていると左手に日枝神社が現れた。参道を中頃まで行くと近所の犬が吠えていたが、出てはこれないことを確認し切り株に腰を下ろしておにぎりを頬張り、お茶を飲んだ。そのうちに犬も諦めて吠えるのを止めていた。


 暫しの休憩でパワーアップして街道に戻って進むと、すぐ先は追分だった。左は壬生道で日光街道は直進するとガイドブックにあるので直進すると、蛸屋茶寮というお菓子屋の垣根の横に「左日光街道」、「右奥州街道」と刻まれた道標があった。左は壬生道ではないといっているのか?と迷ってしまった。が、地図を見ると右手の道に進むとあるので、この奥州街道こそ旧日光街道なのだと理解して右手の細い道へ進む。


 畑あり林ありの旧街道らしい風情の道を1km位進むと左手の林の中に小高い塚のようなものが現れる。通りかかった近所の方に聞いたら一里塚だと教えてくれた。道の右側にもこんもりとした盛り土があったが樹木はなかった。


 そこから1km位進んで左にカーブしていくと新田宿に入る。そこで似たような左にカーブするY字路が現れたので左手に入ったら大間違いだった。新田宿まで行って戻ってくるはめになってしまった。街道は線路沿いにさらに進み大きな通りの立体交差を過ぎてから、そのさきの三叉路を中間の斜め左に進むのだった。そして国道4号線と合流した先が新田宿だ。



(12間々田宿) (14新田宿)

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