08:栗橋宿(くりはし)
・人口1741人、家数404軒、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒
・利根川の船渡し(房川渡し)の町として賑わった宿場であった
・関東の北側に対する警備の要所として関所がもうけられていた

 栗橋---中田 1.8km
 2006年1月8日、3月20日





 12時44分、国道下を通過するトンネルを潜って進み、右折した先の右手に焙烙地蔵が現れる。関所を通らずに川を渡ったもの、渡ろうとしたものなどの関所破りをこの地で火焙りの刑に処したことから、土地の人たちが憐れみ供養のために焙烙地蔵を祀ったとのことである。そういえば東海道の宮宿にも焙烙地蔵があったが、そういう意味だったのかと納得する。


 宿場内は現代風の町並みが続いているが、街道筋の面影のある建物も残っている。宿場内を北側に進んで行くと、右手に本陣があった池田氏宅があり、解説の掲示板がたっている。幕府の命を受けて池田鴨之助がこの地を開拓し、宿場となってからは本陣を代々努めてきたとのことである。


 本陣の向かい側に脇本陣があったのだが、その位置に門つきの家があったので一応シャッターを押しておいた。宿場の通りの突き当たりには村の鎮守であった八坂神社がある。八坂神社を見て右手の坂を登り、土手上の関所跡を見ようとしたがみつから無いので「あれ?そんなバカな」と橋の左右をうろうろ探す。しかし、どう見渡しても発見できなかった。二本の橋の袂の間に関所跡碑があるとガイドブックにはマークされているのに、現実としてそこには何もないのだ。無くなってしまったのだと諦めて橋を渡ることにする。


 利根川は水量も多い川なので当時は船で渡っており、往来船、茶船、馬船などがあり有料だったとのことである。現代の利根川の橋の上はビュービュー西風が吹きまくるすごい場所だった。帽子が飛ばされないように手で押さえて歩かなければならずカメラを構えるのに難義した。橋の上からは右手前方に筑波山がクッキリと見えていた。しかし、私は子供ころ筑波山をいつも反対側から見ていたので、しっくり来ない筑波山に見えた。この橋を渡りきるとその先は中田宿である。


 (2006年3月20日、栗橋町総合文化会館にいって、関所の模型や関係資料を見学し、その後に関所跡を再度確認しょうと宿場を訪ねた。前回のように八坂神社側から土手に登るのではなく、本陣跡の少し先を右手に入り土手をめざしていく本来の街道を進んだ。すると土手の下側に栗橋関所跡碑が現れる。その横の解説によると関所は堤防の内側にあったと図示されている。また、この関所跡碑は堤防上にあったが、堤防改修工事でここに移されたとのことである。堤防に上がって見てみると、何もない背面が見えているだけなので関所跡と容易には分からないなと前回の見落としを慰める。それにしても、ガイドブックと現実がだいぶ違ってきてしまっているなと実感。)


 (なお、この栗橋宿から西に700m位行った所、JR宇都宮線の栗橋駅の北東側に「静女之墳」がある。義経が平泉で死んだ後、尼となった静御前がこの地まで来て亡くなったので高柳寺に葬ったのがこの墓だとのことである。昨年放送されたNHKの大河ドラマでは、静御前の晩年は違っていたようだった気がしたが、これもありかと納得する。)



(07幸手宿) (09中田宿)

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