15:郡山(こおりやま)宿
・幕末には約5000人くらいの人口だったという
・安積国造神社の手前の参道に面して本陣があった
・現代的な町だが追分の道標や曲尺手が残っている

 郡山---安積橋---福原 2.7km
 2008年5月5日





 踏み切りを越えて、ほぼ一直線に北へ街道は進んでいく。約200m位進むと本町1丁目の交差点・野田文具店の所で道路がクランクしている曲尺手が現れる。これは郡山宿の後期の南の入り口だった所だ。次に進むと今度は逆方向にクランクしている郡山宿前期の曲尺手が中町二丁目の交差点・山ノ井ビルの所に現れ、街道筋の面影を語っている。


 宿場内を進んでいくとビュー・プラザの前からは歩行者優先道路となり郡山の繁華街を通ることになる。うすい百貨店やホテルが立ち並び人通りも多くなってくる。右手のホテルロイヤル郡山の前には郡山市道路元標の石碑がある。江戸時代には、奥州街道の道標として八幡様(安積国造神社)の正面に立てられていたもので、木製で作られていた。その後御影石に立て替えられたが道路改修のおりに撤去され、その後再び復元したとのことである。


 郡山宿は大きな宿場だったので本陣があったのではないかと思い、商店街の呉服店に入って尋ねると、八幡様の前あたりだった気がするので、その近くを探して欲しいと教えてくれた。早速街道をもどり、八幡様の鳥居を潜り八幡様と云われる安積国造神社の手前の国道四号線までを探してみたが見当たらない。仕方なく、鳥居横の和久屋というみやげ物屋さんに入って本陣跡を尋ねると、本陣跡の石碑がある所まで案内してくれた。


 そこは八幡様の参道で、郡山ビューホテル・アネックスの裏の敷地の所だった。しかし、本陣跡の石碑は無く、真新しい表参道という石碑に変わっていた。「ここに本陣跡と刻まれた石碑が立っていたのだが・・・・・変わってしまった」と和久屋の女将さんが説明してくれた。無いものは仕方がないので、とにかくお礼を言って、真新しい石碑だけでもカメラに納めておいた。宿場だった郡山宿の貴重な文化遺産を示すものなのに、ホテルには不要ということで撤去はないよなと不満を感じたが、ガイドブックにもなかった本陣跡を発見し「聞いてみるもんだな~」と喜びが勝っていた。(その後の調査によるとホテルの街道沿いの所に本陣跡の碑が設置されていた)


 郡山ビューホテル・アネックスの前で右手に駅があることを確認し駅前通りを横断して旧来の商店街を進んでいく。郡山宿は1623年に町割りが行われ、1689年の人口は1026人、その後増え1830年ごろには3900人、幕末の1868年には約5000人と推定されている。また、家並みは西から街道沿いに移動し、1700年ごろの今の繁華街には家が1軒だけだったが30年後には沢山の家が立ち並んでいたとのことである。二本松藩の宿場だった郡山宿は、その後の戊辰戦争で町の8割りが焼けたと言われている。


 約300m位進むとY字路が現れる。赤い風船という看板の下に、従是三春道という道標と、奥州街道と会津街道を示す道標の二つが立っている。元々ここには奥州街道と会津街道の分岐を示すものが大正3年に立てられたとのことである。また、三春道の道標は、ここより50m位先に木戸があり、そこに1825年(文政8年)に立てられたもので、保存のためにここに移設したとのことである。


 なる程と納得して緩くカーブしている曲尺手のさきに進むと、右手に一方通行の道があった。多分ここの手前に木戸があり、この角が三春道の追分だったのだなとカメラに納めた。


 街道を暫く進むと右手になまこ壁の蔵と櫺子格子の家が並んでいる。カメヤ商事と現代的な店の名が書かれているが、街道筋の風情を残している貴重な建物に嬉しくなる。宿場を後にして先に進んでいくと、やがて逢瀬川に架かる安積橋が現れ、これを渡る。


 磐越西線のガード下を通過すると、その先には藤乃井と書かれたエントツと白壁の蔵が調和している酒造会社が左手に現れる。景色に見とれて歩いていると、いつの間にか空が泣きだしてきた。街道沿いの民家の軒下で雨具を取り出し、防備を固めて歩きはじめたが、雨足はだんだんと弱くなってくる。雨の中では寄り道する気になれず、日吉神社への寄り道をあっさり諦める。日吉神社の境内には伊達政宗の郡山合戦での危機を救って死んだ伊東肥前の碑があり、仙台藩主は参勤交代でここを通過するおりには必ずこの碑に参拝するのが慣例だったと云われている。小雨の中を約1km位街道を進んでいくとそこは福原宿だ。



(14小原田宿) (16福原宿)

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