28:桑折(こおり)宿
・宿場内には旧家や寺があり北端には追分もあるので街道筋の面影が残っている
・羽州街道との追分は近年整備されて風情のある追分となっている
・桑折宿と藤田宿との間は平坦な田園風景だ

 桑折---追分---丁名内---藤田 4.5km
 2008年11月8日





 桑折寺の山門は、1548年、伊達晴宗が西山城を廃城にして米沢に本拠を移したときに西山城の城門を拝領したものだと案内板に解説している。桑折寺を後にして街道を東に進んでいくと、約300m先の右手の桑折陣屋跡に旧伊達郡役所が現れる。明治の香りがする建物だ。


 街道は旧伊達郡役所の前の十字路で左折し、北へと進む。宿場内の家並みは現代的な建物が多いが、門構えのある大きな旧家が右手に現れる。宿場内を進んでいくと左手に無能寺が現れる。山門の前には明治天皇の御小休所の石碑が立っている。この辺りが宿場の北端だった。


 さらに街道を500m位進んでいくと羽州街道との追分が現れる。追分は表示杭や案内板が立つ広場になっている。つい数年前までは民家があり、その横に車の影に隠れて追分の石碑があるだけだったが、最近になって文化遺産として整備されたようだ。左が羽州街道、右が奥州街道だ。弘前の津軽氏、久保田(秋田)の佐竹氏、新庄の戸沢氏、山形の最上氏などが参勤交代の祭にここを通過して江戸へ、または国元へと向かった。


 なお、羽州街道を進み、途中から北西に進むと半田山一帯にあった半田銀山跡があるとのことだ。文政年間(1818?30年)ごろには佐渡の相川、但馬の生野とともに三大銀山と云われ、最盛期にはこの銀山に8万人が暮らしていた。銀の他、錫や鉛も産出したことから電気配線の接合に使う「合金」が造られ、それに半田銀山の名が付けられて「ハンダ合金」と呼称されるようになったとの説がある。


 羽州街道の追分を後にして街道を進むと、街道はやがて広々とした田圃の中の平坦な道となる。つるべ落としの秋の陽が沈み、夕闇に包まれるころ、板橋の七ヶ宿街道の信号を越え、その先を右手に進み藤田宿へと入る。しかし、日が暮れてしまったので、今日のてくてく旅はここまでにして左手の藤田駅に向かう。知らない土地だからか妙に駅が遠く感じられる。駅で暫く待ったのち電車に揺られて旅籠(パシフィクホテル白石)のある白石駅へ。



(27瀬上宿) (29藤田宿)

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