19:本宮(もとみや)宿
・人口2384人、旅籠30軒、茶屋12軒、飯盛女70人という街道屈指の宿場だ
・北町には本陣跡など街道筋の面影が残っている
・本陣跡の横の染物屋の親父さんに話が聞けて大満足だ
・本宮宿から薬師寺まではただただ歩くだけである

 本宮---堀切---薬師寺---杉田 5.3km
 2008年6月7日





 阿武隈川沿いに進み左手に観音堂が見えた所で観音堂に進むとそこは観音堂の裏手であり、街道が残っている。その裏手の道にどう入っていくのか逆方向にたどったが民家があって進めないようだった(川沿いの石碑の横から道があるかのような地図もあるが)。なお、観音堂は元は東向きで街道に面していたのだが旧国道工事のおりに西向きに変えられてしまったとのことである。観音堂の境内には鎌倉時代中期に作られた浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆などの供養塔がある。


 街道は観音堂裏を通過し左に折れて会津街道と合流するが、そこには本宮宿の南の木戸があったという。また、左手後方の会津街道に進んでみると右手に太郎丸供養塔がある。


 宿場内に入ると右手に薬師堂があり、その境内の隅に戊辰戦争(1868年7月27日)の碑と解説がある。二本松藩軍と官軍がこの地で攻防戦をくり広げたことが記されている。


 現代的な町になった南町を進むと、宿場の中央あたりで本宮橋を渡る。その先は北町となり、鉤型に曲がって進む。本宮宿発祥の地である北町には旧家が残っている。


 その先には北町の本陣跡碑と樹齢200年と云われる黒松がある。本陣を努めていた鴫原家はその裏にある。本陣跡をデジカメに納めていたら、隣の鎌田染物屋の親父さんがいたので話を伺った。


 「本陣は茅葺き屋根で二棟あり東北らしい本陣といわれていた、付近一帯は全部本陣の屋敷で、回りには堀が巡らせてあった。南町にも本陣があった(成田屋?)。近くには旅籠が沢山あり飯盛女が大勢いて賑わっていた。前の土蔵の家も以前は旅籠だった」と教えてくれた。なお、親父さんはNHKのてくてく旅にも登場したとのことだ。思いもしなかった貴重な話が聞けて嬉しくなる。親父さんにお礼をいって本陣跡を後にする。


 その先に進むと左手に安達太良神社が現れる。本宮宿という名の由来がある神社とのことなので一応見てみるかと階段に近づくとその長さに驚いた、がしかし境内まで登ってデジカメに納めた。


 宿場内を更に進み百日川の手前で左折して本宮宿を後にする。ここからは特に見るものも無く、約3Kmの道をただただ歩くことになる。なお、街道は堀切のあたりでは右手の山よりを通っていたようだが道筋は残っていない。


 やがて東北本線を左手に見る坂道を登っていくとY字路が現れる。街道は車道と分かれて右手に進む。すると薬師寺の案内が右手に現れるのを確認して坂を下っていく。坂下の街道はこの道よりももう一段下の畑となっている所なのだそうだが、道筋は消失している。再び車道と合流して暫く進んでいくと、その先は南杉田宿だ。



(18高倉宿) (20杉田宿)

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