31:越河(こすごう)宿
・宿場内には街道筋の面影は残っていない
・白鳥神社の先には街道の情景が今も残っている
・馬牛沼、田村神社、あぶみすり坂、歴史上のヒーロが登場してくる場所だ

 越河---白鳥神社---矢尻---馬牛沼---斎川 5.6km
 2008年11月9日、2009年9月25日





 国道四号線を進んで行くとY字路が現れ、そこを左手に進んで行くと右手に越河宿の表示板が現れる。宿場内は現代風の家並みが続き、街道筋の面影は残っていない。越河宿は仙台藩の南端であるため境目足軽が配置され、藩境を越える人や物を検閲していた。また藩主の参勤交代の時には重臣がここまで送り迎えしたといわれている。宿場の北側に来ると曲尺手があったためか道がS字形にカーブしている。


 東北本線のガード下を通過し線路沿いに進み上屋畑の制野肥料店の前で斜め左の小道に入る。街道はひっそりしていて人通りがない。暫く進んでいく左手に白鳥神社が現れる。13時22分、昼飯時なので境内に上がってランチタイムにする。お茶を飲みおにぎりを頬張って一休みする。神社は手入れされているが、白鳥に類するものはどこにも見当たらない。


 ランチタイムを終え、神社の裏手から街道に抜けて進むと、これぞ古き時代の街道という情景が現れる。ここを撮り忘れてはならないとデジカメのシャッターを押す。やがて街道は越河駅の北側にでて東北本線を越えて右折する。ここで私は川沿いに左折するものと思い込んでしまい、暫く進んでから間違いに気づき、戻るはめになってしまった。川を渡ってから、その先で左折しし街道にでる。自販機があったので冷たいお茶を買って飲み、注意力散漫になっている自分にカツを入れる。


 街道を暫く進むと国道四号線と合流する。車の騒音を聞きながら国道を700m位進むと左手に干上がった馬牛沼が現れる。この沼は800年ごろ(平安時代)に蝦夷征伐にきた征夷大将軍・坂上田村麻呂の馬が沼に落ちて死んだことから馬入沼といわれるようになり、その名が付いたとかの言い伝えがある。今は鯉の養殖をしているので晩秋には沼干しを行っているとのことだ。


 馬牛沼を後にして暫く進んでいくと左手に「斎川孫太郎餅」の看板が架かった店が現れる。以前には斎川地区の収入源ともなっていた「疳の虫の薬」の原料である孫太郎虫(ヘビトンボの幼虫)が今でも食べられるようだが・・・・。その先に進むとY字路が現れ、街道は右手に進む。その先で左にカーブする坂を下る。


 坂を下っていくと右手に岩肌が露質した崖が現れる。崖の上を見ると「あぶみすり坂」と書かれた白い杭と馬頭観音の石碑が見える。ここはその昔、源義経が奥州に向かうとき、ここの坂で馬のあぶみを摺った、または壊したことからその名がついたといわれている。ここは奥州街道一の難所だったようだが、旅人を苦しめた岩は道路整備で掘削されて消失し右手の崖としてのみ残っているようだ。往時はあの岩が左の川まで張り出し、旅人は岩の隙間を越えていたのだろうなと思える。(2009年9月25日)


 街道はあぶみすり坂を通過すると右にカーブする。暫く進むと「孫太郎虫供養碑」が現れる。その先には「あぶみすり坂」の石碑もあるがだいぶ位置が違っている。私はこれに惑わされて裏山をうろついてしまったのだ。


 ということで、その先の田村神社の境内には裏から入っていくことになる。田村神社は、その昔、村人を苦しめていた悪路王や青頭、赤頭の鬼を、坂上田村麻呂が斎が川で身を清め鈴鹿明神の助力を得て退治したという伝説から、その徳を慕って村人達が建てたのが始まりだといわれている。


 また、境内には甲冑堂という六角堂がある。義経の家来として活躍し討ち死にした佐藤継信、忠信兄弟の妻たちは、夫の形見の甲冑を身に着け、兄弟の母親の元へ帰り、「ただいま帰参しました」 と述べて母親を慰めたといわれており、江戸時代この話に感服した当地の住人が妻たちの像を安置したお堂を建立したという。


 街道を進んでいくと、右手に鬼ずるす石の案内板が現れる。この付近の岩窟に鬼形のものが住んでいて、人を捕らえては石臼に入れ引き裂いて喰らっていたことから鬼ずるす石の名がある。それらの鬼は坂上田村麻呂によって退治された。坂上田村麻呂がここでは鬼退治で活躍したと評価されているが、鬼とは朝廷支配に反抗した蝦夷を指しているのだろうから、朝廷よりの人々が暮らしていた村だったのだろうな、などと思いながら斎川に架かる橋を渡るとその先は斎川宿だ。



(30貝田宿) (32斎川宿)

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