43:仙台(せんだい)宿
・繁華街の外には道標や蔵造りの屋敷など街道筋の面影が残っている
・何よりも仙台城跡と伊達政宗像が一番の人気だ
・5月の連休中だったこともあってお城や駅前は大混雑、街道ルートは空いている

 河原町---芭蕉の辻---仙台城---芭蕉の辻---北仙台
 2009年5月5日





 ピンク色の歩道となった街道を暫く進んでいくと左手のマンション前に「丁切根跡」の絵図が現れる。ここは宿場の境でここに木戸があり、夕方六時から翌朝六時まで木戸が閉じられていたそうで、ほぼお天道さまと同じに活動していたんだなと思われる。その先に進むとT字路となり左折し右手の仙南堂薬店の前を通過し、コクヨ文房具店の先を右折する。


 小学校の前のT字路を左折し、不動産・藤開発の交差点を右折すると南材木町の通りに入る。暫く進んでいくと右手に道標が立っている。その先の左手には白壁の蔵造りの薬局があり、右手には蔵造りで門構えのある旧針惣屋が現れる。この針惣屋は先の丁切根の木戸の鍵番を勤めた家だ。針惣屋の看板が無くなっているところをみると商い止めたようだ。


 曲尺手を通過して先に進むと畳屋丁の道標が現れ、その先に進むとT字路となるが先に進む左手に三宝大荒神社が現れる。街道はここを左折するのだが、その前に陸奥国分寺跡を探訪するため、JRのガード下を潜り右折して寄り道してみる。片道1.2kmの寄り道だ。


 陸奥国分寺は741年の聖武天皇の命で造られたもので最北端の国分寺だった。大きさも武蔵国分寺に次ぐ規模だったが、934年の落雷、1189年の奥州合戦の戦火で滅びてしまったとのことだ。その後、跡地に伊達政宗によって仁王門、薬師堂が建てられたと解説されている。広々として敷地だけが国分寺跡であることを語っているようだった。トイレ休憩して再び街道に戻る。


 宿場内の街道を先に進むと右手奥に泰心院の山門が見える。この門は仙台藩の藩校養賢堂の門だったもので、養賢堂が県庁舎として使われることになってこの地に移設されたものだと解説されている。泰心院を後にして進んでいくと荒町の道標が現れる。


 バス停前を歩いて行くとバス待ちのお婆さんから、「バスがなかなか来ないが手前にバスが来ていなかったか」と不意に聞かれる。「ええ~」と絶句し「多分いなかったようだが」と答えると、「まだ待っていた方が良いですかね」と詰められ、「地元の者ではないので何ともいえませんが」と答えて退散した。そういえばバスが走っている感じはしなかったなと思いつつ、しかしこの格好は地元の人間には見えないはずなのだが・・・・。


 国道四号線を超えた先で右折し北目町の大通りを抜け左斜めの五橋通りから直ぐに左折して二つ目の右折通りを進むのであるが、いよいよ芭蕉の辻だと興奮して地図を見誤って一つ目を右折してしまい、サンモール一番町の通りに出てしまった。人混みの中をいくら進んでも芭蕉の辻が見つからない。おかしいなと地図を見ていると、一つ目を右折したのではと気づき、一つ左の通りを引き返すと芭蕉の辻があったが、そのまま通過して間違えた地点まで戻る。


 今度こそと東北大生協北門食堂と金属材料研究所の間の道を北に進み、五橋通りを渡り、国分寺通りに入り青葉通りの交差点通過して進むと交差点の左、明治安田生命の前に芭蕉の辻が登場する。「おお~、遂に仙台宿に到達だ!」とひとりごとのように小声で歓声をあげる。早速デジカメに納めようとカメラを向けるのだが、その角にはおばさんが待ち合わせしているらしく動かずにいる。ということで、おばさんにお願いして、チョット移動してもらいデジカメのシャッターを押す。


 道標には「南 江戸日本橋迄 六十九次 九十三里 奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次 百七里二十二丁 奥道中」と刻まれている。「芭蕉の辻」の碑には、名称の由来が刻まれている。それによると「かってここに芭蕉樹があったがためと言い、また繁華な場所ゆえの場所の辻の訛ったものだとし、更に藩祖政宗が重く用いた芭蕉という虚無僧が一時居住していたためとも言われ定かにはわからない」とある。


 なお、「正式には札の辻」であって、この辻の西の「道路の中央に幕府の指令による忠孝・切支丹・捨馬などの制札が掲げられていた」ことによるとある。当の芭蕉が通過した時にもその呼び名が使われていたのだろうか、誰もそんな話はしていないな~と繋がりが無いのはわかったが・・・。ところで、サンモール一番の通りとは違って、人通りがほとんど無い。往時はここが宿場の中心地だったが、今は日銀支店や七十七銀行、生命保険のビルで囲まれている。人が寄りつかないのもうなずける。


 さて、宿場はさらに北に続いているのだが、その前に仙台城を見学してくることにする。この辻を西に向かって進み大手門へと向かうことにする。大町通りを進み、五叉路の公園通りを通過して坂道を下っていくと大橋の手前、右手の公園内にキリシタン殉教の碑が現れる。1624年の冬、山奥にいた約60人のキリシタンが雪の中を仙台城下まで連行され、生きて9人だけがたどり着いた。しかし、改宗を迫る厳寒の水責めにあい全員が殉教したとのことである。


 大橋を渡ると登りの坂道となる。大橋の手前から城に向かう車が大渋滞して横を悠々と歩くのは気持ちがいい。暫く坂を登っていくと左手に大手門の隅櫓が現れる。この奥に大手門があったのだが残念ながら今は無い。右手奥に伊達政宗の命でスペインに渡航した支倉常長の像がある。


 ここからは観光客と一緒になってだらだらと続く坂道の歩道を登っていく。やがて本丸下の伊達政宗像のある見晴台に出る。入口ではボランティアのおじいさん達が仙台城の築城からこれまでについて説明しているのでまずはその話を伺いつつ一休み。次に政宗像をデジカメに納めようと、大勢の観光客に混じってシャッターを押す。しかし逆光なのでどうも顔が暗くなってしまうがしょうがないと諦める。


 ここでデジカメをビデオに切り換え、動画で見晴台の様子を伝えることにする。カメラを構えて撮りはじめると丁度そこに女の子が入ってきて、カメラの方向に動いていったので彼女を撮っているかのようになってしまった。あれれ、まあ、いいか。


 さて、帰りは大手門まで行かずに手前で坂下の仙台市博物館に抜ける道を下っていく。博物館横には政宗の胸像があったので今度は逆光なしで鮮明に撮れた。この像によると政宗は面長の顔だちのようだ。博物館前では韓国の太鼓を使った舞踊が披露されていた。NHKの韓国ドラマの放送にあやかっての催しのようだが、ここもお客さんがいっぱいだ。


 仙台城から再び芭蕉の辻に戻り、今度は宿場の北の外れまで約2kmの街道を探訪する。国分寺通りを北に進んでいくと二つ目の大きな通りの右手先に勾当台公園が現れる。噴水のある公園の隅に、江戸時代の仙台出身の名横綱・谷風の像がある。


 街道に戻り、北に向かって暫く進んでいくと、木町通2丁目で元禄8年(1695年)創業の元祖・仙台駄菓子屋の看板を掲げている熊谷屋が左手に現れる。その先の柏木町では左手に蔵造りの店が現れる。仙台市景観重要建造物に指定されている横山味噌醤油店だ。


 正面に宿場の北端にある青葉神社が見えてきた時、左手に検段屋敷だった伊澤家が現れる。門構えがあり、どっしりとした蔵造りの建物はやや壁がいたんできていたが街道筋の面影を残している。街道は青葉神社前で右折して進む。反対の左手には伊達家に縁のあった輪王寺や覚範寺などがあるがパス。街道は支倉常長の墓などがある光明寺の前を通過して進み仙台宿を後にする。


 15時35分、地下鉄・北仙台駅に到着して今日の旅を終了する。仙台道をついに踏破した。振り返ってみれば約1年で踏破してしまった。あまり先人がいない旅でどうなることかと不安を抱いて歩いていたが、無事に踏破できたことが何よりもうれしい。振り返ってみれば、今回も長いようで短い「てくてく旅」だったな、と地下鉄駅ホームで電車を待ちながらいろいろな感慨が浮かぶ。JR仙台駅に戻り、駅地下の焼き肉屋で名物の牛タン定食を食べ、お土産に「萩の月」を買って帰宅する。



(42長町宿) (51文知摺観音)

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