17:日和田(ひわだ)宿
・日和田の町中には街道筋の面影は残っていない
・町外れの蛇骨地蔵堂だけが往時の面影を残しているようだ
・安積山は万葉集の歌にも登場する地なのだが特に何も無い所だ
日和田---安積山公園---姉ヶ茶屋跡---高倉 3.6km
2008年5月5日、6月7日、2009年9月24日
緩い坂道を登って日和田宿に入っていくと右手に白壁の重厚な蔵が現れ、ちょっぴり歴史を感じつつ宿場内を進む。しかし時間は17時を過ぎているので、駅へ向かう道が現れた所で、今回はここまでとして日和田駅に向かう。 |
6月7日9時37分、再び日和田駅前に立つ。宿場内のコンビニで食料を買い込もうとしたら、何とコンビニが潰れている。困って地元の方に聞くと、白壁の蔵の所を横に入っていくとスーバーがあるとのことなので、早速おにぎりとお茶、駄菓子などを調達して出発する。 |
宿場内には街道筋の面影は残っていない。宿場の北の端まで来ると、左手に蛇骨地蔵堂が現れる。しかし、入り口の石碑の前にどうどうと電柱を立てるというのはいかがなものか・・・・・。この蛇骨地蔵堂というのは、家来に両親を殺されたあやめ姫が大蛇となって仇を討つだけでなく里を荒らし、毎年16歳の娘の人身御供を要求していた。ついに33人目の時に、身代わりとなった佐世姫のお経によって大蛇は骨を残して成仏したので、この骨で地蔵尊を彫って祀ったのがこのお堂であるとのことだ。 |
お堂の裏には人身御供となった33人の観世音が祀られている。なお、お堂は713年に開山されたとのことである。また、蛇骨地蔵堂の横には、見事な笠松があるが、隣の西方寺の名がつき「西方寺の笠松」と命名されている。 |
蛇骨地蔵堂を後にして約500m位街道を進んでいくと、右手に安積山公園が現れる。公園の入り口に、1689年6月17日に芭蕉もこの地を訪れ、花かつみを探したと案内板に解説があったので、その下にある花かと思ったのだがどう見ても違う花だった。階段を登っていくと丘の上の広場に出る。丘の北側に降りていくと、そこが正面入り口で、花かつみと云われるヒメシャガが植えられていて納得する。 |
街道を暫く進んでいくと、右手に綺麗な菖蒲が咲いている。よく見るとそこは横森新田の姉ヶ茶屋跡で、参勤交代の行列が必ず休憩所とした所で、明治天皇もここで休憩したと解説してある。今はその石碑が残るだけだ。 |
その先の常磐自動車道のガード下を抜けると、街道の松並木が所々残っている所にでる。以前はもっと松が残っていたと街道の案内板の写真が物語っている。しかも道路沿いには新たに電柱が立てられおり景観が一層悪くなっているのが残念だ。 |
左右の水田の中を進んでいくと、街道はその先で左手に進む。だが、そこに向かって右手の幅の広い畦道が田圃の淵を走っている。街道が畦道として残っているようなので確認するため歩いてみたが、右手の山にさしかかった箇所で完全に行き止まりとなっている。畦道の横の小川にはU字溝が埋まっており、山中を走っているが街道とは関係なさそうだ。どうやら街道跡は残っていないようだ。(2009年9月24日) |
車道と分かれて大越製作所の標識の立つ街道入口を進んでいくと、街道の名残のような松の木が現れる。その横を通り、急坂を下っていくと正面の家の犬が吠えていたが無視して車道に合流する。暫く進むと、やがて高倉宿に入る。 |