27:瀬上(せのうえ)宿
・足守藩陣屋跡、土壁の屋敷など往時の面影がある
・陣屋跡ではおじいさんから解説してもらってよかった
・三義民顕彰碑や伊達朝宗の墓所がなかなか見つからず歩き回ってしまった
瀬上---幸橋---長岡---義民碑---桑折 5.7km
2008年11月8日
T字路を右折すると50m程先でまたT字路となり左折する。すぐ左手に大きな屋敷が現れる。大國屋という表札か架かっている(以前は島貫家だったようだ)この屋敷の前に曲尺手があったようだが、今ははっきりしない。近くに信号があるので車が渋滞していて、街道をうまく写せないほどだ。 |
宿場内は現代的な家並みが続いていて街道筋の面影は無くなっているかのようだ。瀬上宿は出羽に抜ける山形道や、相馬方面に通じる中村街道などが分岐する地点でもあり、また阿武隈川舟運の瀬上河岸もあって、近隣の人で賑わい、瀬上花街と呼ばれる歓楽の町としても知られたとのことである。 |
宿場の中ほど左手に備中足守藩の瀬上陣屋跡があるというので、左折して小学校前にでて探したがなかなか見つからなかった。雷神社前の駄菓子屋で訪ねたが知らないというので、もう一度西に進んで十字路の先を見て、やっと「史跡足守藩陣屋跡入口」という看板を探し当てた。早速、進んでいくと民家・斉藤さんの庭に入るので、ことわりの挨拶をして裏手の陣屋跡の石碑と案内板、大きなカヤの木をデジカメ納める。 |
斉藤さんの説明によると、外様大名だった足守藩は岡山県に所領をもっていたが、1800年に幕府から村替えを命ぜられ、その村の分領支配のために、ここ宮代村に陣屋を設置したとのことである。また、陣屋の鎮守として祀られ、陣屋解体のおりに斉藤さん方に譲与されたという最上稲荷の社にも案内してくれた。これほど離れた飛び地を村替えとして命じるというのは、よほどの嫌がらせの意図が幕府にあったのだろうなと感心してしまう。最後に、斉藤さんにお礼を言って街道にもどる。 |
宿場内を先に進むと、土壁の塀に門構えの屋敷など往時を偲ばせるような建物が現れる。やがて街道と荒町で曲尺手となり、瀬上宿を後にする。暫く進んでいくと摺上川に架かる幸橋を渡る。昼飯を食べていなかったので、川原に降りて暫しランチタイムにする。定番のおにぎりを頬張りお茶を飲んで一休みだ。 |
ランチタイムも住んで街道にもどって進む。街道に柿の実が垂れ下がっているが渋柿なので誰も手を出さないようだ。摺上川の北側は伊達市であるが、かの伊達氏はその始祖・朝宗がこの地を納め、伊達と名乗ったことから始まったとのことだ。街道を暫く進んでいくと長岡の商店街に入る。ここは宿駅にはならなかったようだ。さらに街道を進んでいくと右手に赤煉瓦の塀と門構えのある大きな旧家が現れる。 |
真っ直ぐに続く街道を進み、産ヶ沢川の橋を渡るとその左手に寛永義民顕彰碑(三義民碑)がある。安積一揆の2年後、1749年(寛延2)の大凶作のおり、長倉村組頭斉藤彦内、鎌田村猪狩源七、伊達崎村蓬田半左衛門を代表者とする一万余名の農民一揆があった。年貢の軽減は達したが、三名はここ産ヶ沢の刑場において斬首されたとのことだ。合掌! |
街道を暫く進んでいくと左手の路地の角に「史跡伊達家始祖朝宗公墓所入口」の杭が現れる。当初はここを通過してしまったが、地元の方に教えられて戻ってきて発見。ここを左折して進んでいくと伊達家始祖の墓である五輪の石塔とその奥に丸石の墓が現れる。 |
藤原朝宗の墓は質素な丸石の墓であるが、1821年に伊達家が五輪の石塔をその前に建てたとのことである。朝宗は常陸国新治群の荘司だったが、頼朝軍の奥州攻めに参加して軍功をあげ、伊達(イダテ)郡を賜り来住して家名を伊達(イダテ)と改称したとのことである。なお伊達(イダテ)は江戸時代の中頃からダテと読まれるようになったとの解説もある。ダテの読み方が元はイダテだったという解説は初めて聞くが、なぜダテと読むのだろうと疑問があったので「なるぼど」と納得した。 |
街道にもどり右に曲がり左に曲がりして暫く進んでいくと正面に桑折寺が現れる。ここを右折して進むと桑折宿だ。 |