29:藤田(ふじた)宿
・藤田宿は国見宿とも云われていた、家数145軒、人口708人、旅籠14軒
・厚樫山の麓は古戦場跡であり、藤原軍が奥州合戦のために築いた大防塁跡がある
・芭蕉が奥の細道に「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記された箇所でもある

 藤田---腰掛け松---大木戸---貝田 4.8km
 2008年11月9日、2009年9月25日





 8時10分、藤田駅前に立つ。駅前の通りを道なりに進んでいくと街道にでるのだが、途中左手に観月台公園があり、聖徳太子神社があるというので一応確認しておこうという気持ちで入ってみる。鳥居を共通にして富士神社と聖徳太子神社が並び建っている。


 公園を後にして宿場内に入る。現代的家並みが続いているが、左手に蔵付き洋館の旧家が現れる。チョットちぐはぐな感じがするが・・・・。藤田宿は桑折宿と違って代官所が無いので気楽な宿場だったといわれている。揚屋(遊廓)が18軒と旅籠よりも多く、近隣の村人や半田銀山の人夫などが何日も入り浸ってしまうことがあったそうである。今、そういう面影はどこにも残っていない。


 街道を北の端まで来ると左手に鹿島神社が現れる。小学校の前を通過して暫く進んでいくと、国道四号線に出る手前の柿畑で、柿がたわわに実っている。渋柿なのでか、誰も盜らないようだが、私はデジカメで撮った。


 国道四号線に合流し、厚樫山を遠くに見つつ中学校の先のY字路を右手に進む。橋を渡った先の十字路を左折して国道四号線のガードを潜って進むとその先に国見神社へ登る階段が現れる。さらに暫く進んでいくと右手に義経の腰掛け松が現れる。金売り吉次の手引きで平泉に向かう途中の義経が、ここで松に腰掛けて休んだという松だ。現在の松は二代目の松で、三本の太幹の内二本が枯れてしまい、かろうじて一本を残すのみとなっている。


 枯れてしまった初代の腰掛け松は傍の小屋に祀られている。また、松の裏手には1800年に江戸の文人、随古堂素閑によって書かれた碑が立っている。


 腰掛け松を後にして、北側の道に出て右手に進むと国見神社の前を通過し、国道四号線にでる。そこで国道を北に進むとドライブインまつやが右手に現れ、犬に吠えられるが適当にあしらって進む。旧奥州道中国見峠長坂跡の案内板のある所で左折して舗装された車道を登り左、右にカーブするとその先に長坂跡が現れる。左手は展望が開けて国道まで降りていけるが街道の面影は何もない。以前は金網のフェンスがあって遮断されていたとのことだ。


 長坂の案内板にはこの地が源頼朝の鎌倉軍と藤原泰衡の奥州軍とが激突した古戦場であるとともに、芭蕉の「奥の細道」に「路縦横に踏んで伊達の大木戸を越す」と記された箇所がこの辺りの坂道であると解説されている。長坂を登っていくとやや広い箇所にでる。そこには芭蕉翁碑がある。昔は茶屋があったといわれている。


 その先に進むとJR東北本線で行き止まりになる。右前方に進むと泰衡軍の佐藤基治等一族の首級がさらされたといわれる「あつがし山古戦場、経ヶ岡」の案内板が立っている。その先に進むと、右折してリンゴ畑の脇道から先程の国道に戻る道となっている。街道は消滅しているのだ。リンゴ畑で作業中の方に聞いても街道がどう続いていたのかは知らないという答えだった。しかもリンゴ畑は通り抜け禁止になっているので探し回れないのだ。


 ここは自分で探索してみようと国道を戻り、藤田宿側から直進してくる旧国道に出てみた。すると右に大きくカーブする箇所には伊達家のルーツを訪ねるツアーのお客さん達が1189年の奥州合戦について話を聞いていた。これは都合がいいと、暫し長坂跡の探索を中止してツアーのお客方の隅で藤原軍の大防塁跡について解説者の話を拝聴した。


 解説者の話によると、ここは奥州藤原軍が鎌倉頼朝軍と戦うために、厚樫山から阿武隈川までに築いた大防塁跡(二段構えの空堀)が走っている箇所であり、この地点を発掘調査をしたところ石垣と防塁からの出口があった箇所で、道が丸くなっているのは出撃するための馬だまりの箇所だったからだとの説明があった。


 また、右手の林の中にも防塁跡が残っていると案内して空堀跡を見せてくれた。藤原軍は背後に回った頼朝軍の奇襲で混乱し、総崩れとなり敗走することとなった。この地こそ、まさしく「兵(つわもの)どもが夢の跡」だったのだなと懐古の情が涌いてくる。


 さて、ツアーのお客さん達と分かれて国道四号線にもどり、再び長坂から続いていただろう街道を探して北へと歩いてみた。線路の西側の道を歩いてみたが何もえるものはなかった。おみやげ屋谷津農園のおばさんに昔の街道について伺ってみたが、分からないということだった。しかたが無いので、長坂に続いていた街道の探索を中止し、街道を先に進むことにする。


 その後、再び街道(旧国道)を調査した所、3人の地元のお婆さんから、「昔、長坂に続いていた道は、ここの畑のところを通過して旧国道のこの道に続いていたが今はなくなってしまった」、「昔はここら一帯は松林が続いている傾斜地で人は住んでいなかった」等の話を伺えた。その地点は貝田宿から来ると左へ曲がる手前で、大内さん宅の横の畑から曲がらずに直進して登り坂となり、長坂の上に向かって登っていったようだ。多分、東山道のなごりの山道だったのであろうと思える。(2009年9月25日)


 街道(旧国道)にもどり、暫く進むと左手に真っ赤なリンゴがなっていたがデジカメに撮るだけにした。やがて国道四号線と交差する十字路にでる。


 街道は交差点を渡ってから右に30m位先に行き、ガソリンスタンド前のガードレールが切れていて葛が繁る農道となった街道を降りていく。地元の農村の方に怒られるのではとハラハラしながら、草の繁った畑の脇道となった街道を進んでいくと左手に庚申塚が現れる。やがて舗装された道となり、坂道を登っていくとその先は貝田宿だ。



(28桑折宿) (30貝田宿)

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