18:高倉(たかくら)宿
・民家が並ぶ宿場内には街道筋の面影は残っていない
・仁井田の街道は行き止まりではなく道筋は残っている
・鳴瀬から本宮宿までの街道は区画整理で一部を残して消失している

 高倉---五百川橋---仁井田---鳴瀬---本宮 5.2km
 2008年6月7日





 民家が並んでいる宿場内を進んでいくが街道筋の面影は何もない。暫く進むと右手奥に龍宮城の門のような山清寺の山門が現れる。その他に見るものは何も無いなと宿場内を進んでいく。やがて宿場の北側の外れまで来ると、右手に鹿島神社が現れる。ここで街道は90度左に折れて北に向かって進む。


 暫く進むと明治時代に架けられた五百川の橋が現れる。街道は100m程左側にあった五百川橋を通過していたのだが、川岸には残念ながらその面影は残っていない。なお、五百川の名は、京の都から旅をしてきた人が、この川は丁度五百番目の川になるといったことからその名がついたとのことだ。


 橋を渡り右手のパナソニックの工場を眺めてつつ暫く進んでいく。そろそろ仁井田のY字路が現れるのだが、と思いつつ進んでいくが現れずに坂道を登る。やがて下り坂になって川が登場したところで行き過ぎていることに気づく。地図をよく見るとY字路ではなく十字路であることに気づき、急いで戻る。ダイハツの店がある手前に左手に入る道があり10m弱進んで右に曲がっていることを発見。街道らしき道を進んでいくと、途中左手に供養塔群が現れて街道に間違いないと一安心。


 ほぼ直進している街道は下り坂になる手前で舗装が切れている。ここで行き止まりかと思いつつ進んでいくと、畑の中に草道が残っている。やがて民家の横の急坂を下り、車道に出ると、そこは先程引き返した地点だった。街道の道筋が残っていることに感激、道を間違えた苦労に吹き飛んだ。


 橋を渡るとその先の左手に積達騒動鎮定之遺跡が現れる。1747年、毎年の不作つづきで年貢の軽減を農民が嘆願したが、わずかな軽減しか受け入れられず1万8千人の安積一揆がこの地で発生。この時、藩と交渉して流血することなく年貢軽減を実現し鎮定した冬室彦兵衛を顕彰したものだ。


 街道は向かい側のY字路を右手に進み坂を登っていく。暫く進んでいき左折して車道に合流するが、街道はここを直進していた。しかし今は道筋が残っていない。


 車道を進み中古車屋の先を右折し、阿武隈川に架かる橋の手前で左折して川沿いに進む。丁度、昼飯時間なので桜の木陰で、阿武隈川を眺めつつランチタイムにする。街道はこの川と着かず離れずの関係なのだなとおにぎりを頬張りながら振り返る。ランチタイムを終え、先に進むと本宮シルバー人材センターの建物が左手に現れる。街道は車道から斜めにここにつながっていたのだが、今は区画整理されてその道筋は残っていない。さらに川沿いに進み、その先の観音堂の裏手に出るとその先は本宮宿だ。



(17日和田宿) (19本宮宿)

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