37:船迫(ふなばさま)宿
・宿場の外れにある船迫館跡が唯一の街道筋の名残と思われる
・薬師堂前から国道四号線まではてくてく旅お勧めの街道コースだ
・内余川一里塚跡碑から白幡橋までの川沿いの街道もまたお勧めのコースだ

 船迫---東船迫---一里塚跡碑---リコー前道路元標---槻木 5.1km
 2009年5月4日





 左手に熊野神社の森を見ながら上町を進んでいくと曲尺手が現れる。その手前には寺がある筈だかなかったので、消失してしまったのだろうと勝手に判断して進んでいくと左手に阿弥陀堂が現れたので、地図と現場の配置が合わないので「え?っ」とパニクってしまった。先程の曲尺手は第一の曲尺手で、阿弥陀堂の先にある曲尺手が第二の下町の曲尺手なのだ、と頭を整理して何とか落ち着いた。阿弥陀堂に登ってみるとお堂はなく野ざらしの石仏と山神と刻まれた石神さまなどが集められている。


 第二の曲尺手を通過して進み(右手の二軒目の家の庭に明治天皇聖蹟の碑がある、肝入り家だったのか)、下町の突き当たりのT字路を右折する。右手には白壁の塀をもつ門構えのある旧家が現れるが、今風の家になっている。宿場内には街道筋の面影といえる様なものは何も無かったなと思いつつ、車道を横断して直進していくと左手に薬師堂が現れる。神仏の位置だけは動かずにあったのだろうなと薬師堂の階段を登る。


 薬師堂を後にして山沿いの街道を進んでいくと左手に船迫館跡の標示がある。そこは船迫左衛門の城があった所で、「柴田の七騎とともに伊達景宗の留守家入嗣に従った船迫氏の拠った所か」と疑問符付きで記されている。ここが船迫宿の命名の原点なのだとガイドブックにも無かった館跡を発見して暫し嬉しくなる。


 ここから暫くは右手には田圃が広がり、左手には山があるという典型的な街道の風景が楽しめるコースだ。菜の花やタンボボなども咲いていて、てくてく旅お勧めのコースだなと一人悦にいって歩く。


 自動車学校横を通過し、国道四号線を横断すると左手に「奥州街道通り」という道標が立っている。街道を進んでいることを確認して東船迫に進んでいくと、右手に白石川が接近して見えたので、右折して川の土手に登り木陰で小休止。ついでに河原でトイレタイム。一息入れて、再び歩き始める。


 さくら船岡大橋の下を通過して進むと左手に公民館と記念碑が現れる。農地の区画整備の記念碑であるが、付近の奥州街道についても記している。それによれば、船迫の松並木と呼ばれる並木があり、暑さや寒さを避けるために農民も旅人も重宝したが、戦争中に松根油を採取するために切り倒されてしまったとのことである。今はただ、真っ直ぐな街道が続いているだけだ。


 そこから暫く進むと、やがて国道四号線に接近して右にカーブして進む。するとその先の右手に新しそうな一里塚跡碑と案内板が現れる。この一里塚は内余川の一里塚と呼ばれるもので、柴田町にはこの前後のものを含め三つの一里塚があったと記されている。平成十九年九月に立てたとのことで、ガイドブックにも登場しないものを見つけられて何だか得した気持ちだ。一里塚跡碑を立ててくれた地元の方々に感謝!


 一里塚跡碑を後にして街道を進むと、街道は左手の国道から距離をおいて右手の白石川沿いに進む。天気もよく、川沿いの道には菜の花やタンボボや見知らぬ花が咲いていたりでまるでハイキングコースを歩いている気分だ。浮かれ気分で進んでいくと、左手のリコー開発センターの前に「距仙臺元標七里」と刻まれた道路元標が現れる。これは明治二十二年の里程標だ。


 その先で東北本線のガード下を通過して進むとY字路が現れる。左に曲がらなければならないと思っていた私は早速左手に進んでいったが、地図と現場の地形が合わないことから間違いに気付く。「ええ?」とガックリ。間違えた自分が腹だたしいが、とにかく元に戻ってさらに直進しその先の白幡橋の交差点で左折し、やがて交通量の多い車道を進む。左手に八幡神社の赤い鳥居を見ながら約700m位直進して進むと、その先は槻木宿だ。



(36大河原宿) (38槻木宿)

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