26:一戸(いちのへ)宿
・本町には街道筋の面影はほとんど無いが中心街だったと記されている
・浪打峠一里塚と浪打峠には往時と変わらない雰囲気がある

 一戸---小井田---浪打峠---桜清水---二戸 7.4km
 2014年11月7日





 往時の一戸宿はどこなんだろうと思いつつ駅前商店街を進むと、予想もしない左手に矢印のついた旧奥州街道の道標が現れる。矢印が予想もしていない方向を示しているのでの意味不明。これが先達を悩ました道標かと思いだした。坂を下っていくとまた左手にその道標が出てきたので、その前の徳屋という衣料品店で道標について尋ねると、「昔の奥州街道を示しているもので、その先にいくとまた案内が出ていますよ」と教えてくれた。


 八坂神社がその先にあるようなので道標に従って左手の路地に進んでいくと、石垣の上に一戸宿付近の奥州街道のルートが書かれた案内板(野田地域活性会)が現れる。それによると一旦線路の左手まで行って帰ってきてこの路地を通過して本町にいくのがルートだったと描いてある。お参りする人だけが線路の向こうまでいったのではないかと解釈し、本町まではここに示されたルートを進むことにする。


 先に進むと八坂神社があり、突き当たりを右折して進むと馬淵川にでる。往時はここで馬淵川を渡っていたのだが今は橋がないので右折して県道にでて川を渡る。橋の手前には白壁の屋敷と商家があるので一応カメラに納めておく。


 橋を渡って左折すると一戸宿の本町となる。右手の丘の上に一戸城跡がある。秀吉の奥州仕置きで落城した城であるとのことだ。一戸宿の中心だった本町を進むと中程の交差点を前後して大きな屋敷が現れる。街道は交差点の先で右折して本町通りを後にする。


 街道は実相寺の前を通過する。実相寺には樹齢280年という大公孫樹(銀杏)がある。黄色く色づいているのものと思って境内に入ったら、坊主となっていた。落ち葉もない。どうしたんだと思いつつ、カメラに納める。


 先に進み、国道下のガードを潜り、左折して進み、再びガードを潜ると右手に小井田の千本桂が現れる。桂は約1億年前の地層から出土するほどの太古からの植物だと案内板にある。


 街道は橋を渡り登り坂の舗装道路をとなる。左手に浪打峠の案内板がある。この道は明治に国道ができるまでは一戸宿と福岡宿との主要路だったとある。坂道を登っていくと、街道は高速道路を渡って進む。熊よけの鈴を鳴らし、落ち葉を踏みつつ進んでいく。途中、倒木もあるが問題ない。


 ハアハア、息を切らせてつつ、山道を登っていくと右手に浪打峠一里塚の案内板が現れる。切り通しとなって道が下げられているので、一里塚がだいぶ高い所にある。左右とも健在だ。通りすぎてから振り返ると分かりやすい。


 一里塚を後にして暫く進むと、浪打峠の広場に出る。街道の両側には交叉層という1500万年前の海底の堆積層が露出している所で、海岸のような雰囲気をかもし出している。それで浪打峠と言われてきたとのことだ。ここには明治天皇御野立之碑があり、休憩用の東家もある。丁度昼飯時なのでここでランチタイムとする。色づいた木々をながめつつ、二戸のコンビニで買ったおにぎりとお茶とお菓子で一休みだ。


 浪打峠を後にして下っていくと、道端には紫陽花が咲いている。季節が違うなと思うのだが・・・・。暫く進むと、山下水の案内板が現れる。ここの水は先の浪打峠での明治天皇の野立てに使われた水だとのことである。


 坂道を下っていくと、街道は舗装道路に合流する。稲刈りの終わった田圃を眺めつつ、暫く進んでいくと右手に桜清水地蔵尊が現れる。熱心にお祈りしている人がいたのでカメラを控える。その先の左手には桜清水の案内板が現れる。往時の旅路の重要な水飲み場だったとある。ところで、右手の地蔵尊は以前は清水の横にあったもので右手に移動したようだ。


 その先に進むと、街道は舗装道路と分かれて左手の草道となる。私はこれは道ではないだろうと舗装道路を進んでしまい、丁字路が見えた所で気づき、あわてて引き返し、この分岐点に気付いたしだいだ。街道を暫く進んでいくと、左手に珍しい形の火の見櫓付消防小屋が現れる。その裏手には八幡宮がある。やがて街道は久府坂と呼ばれている下り坂を降りていく。その先は福岡(二戸)宿だ。



(25沼宮内宿) (27福岡宿)

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