12:金成(かんなり)宿
・代官所跡、ハリストス正教会、歴史民俗資料館、菅原本陣跡と旧蹟がある
・夜盗坂、新鹿野一里塚手前の街道、十万坂と街道が残っているのすばらしい
・県道48号線にでる手前の街道には気付かず歩いてしまったのが残念だ

 金成---夜盗坂---新鹿野一里塚跡---十万坂---有壁 9.5km
 2010年10月7日





 宿場内の上町を進んでいくと門構えの旧家が現れる。山田屋の看板が架かった店が左手に現れる。中町に進むと左手にけやき会館の看板が現れるので左折してけやき会館へ向かう。けやき会館の左手奥に案内板があり、けやき会館の地は仙台藩の金成代官所があった所で、三迫、磐井などの村から年貢の徴収をしていたと記してある。


 けやき会館の南隣にはハリストス正教会イオアン聖堂がある。ビザンチン式教会というもので昭和9年に建立したとある。西洋の匂いのするしゃれた造りだな感心する。


 けやき会館の裏には更に歴史民俗資料館がある。この建物は明治20年に建てられた木造素木造り、小羽葺き(現在は銅板葺き)の二階建ての旧金成小学校校舎を利用している。見学は有料で、館内には金成地区の郷土資料や文化財が紹介されいる。中でも郷土の出身者で労働組合組織「友愛会」会長となった鈴木文治の紹介が目をひいた。ちなみに古川出身の吉野作造とは終生の友だったとのことである。資料館も見学して一区切りしたところで、資料館の庭の横にある明治天皇行在所碑の横でランチタイムにする。おにぎりを頬張りつつ、古くから東北にも西洋の文化か浸透していたのだなと認識を新たにする。


 資料館を後にして街道にもどり、暫く進むと左手に公民館が現れる。ここは金成宿本陣跡であり、大肝入であった菅原家が勤めてきたもので、仙台藩主伊達綱村なども宿泊したとのことである。街道にもどり金成宿を進む。右手に門構えの旧家が現れる。


 やがて小川に架かる橋が現れるのが、その手前のT字路を右折する。国道を横断し新町大橋という小橋を渡って左折して川沿いに進む。色づいた柿の実が秋を告げている。


 街道を進んでくと民家も少なくなり、やがて登り坂となる。往時は夜盗坂(よとうざか)と呼ばれていた坂道で今は牧場の牛舎があり牛が珍しそうに私を見ていた。その先にY字路が現れるが右手の小道は街道ではないようだ。暫く進むと右手の下に大きな牧場が現れる。山の中で更に牧場を広げる工事をしていた。舗装された山の上の道路は車もないので歩き安く快適である。暫く進んで行くと舗装道路は左にカーブするが、そこを右手に進むのが往時の街道であると栗原市物産協会発行の資料には書かれていた。しかしガイドブックにはそのことは書かれていないので気付かずに舗装道路を進んでしまった。


 街道はやがて県道48号線と交差する。そこを横断し階段を登り右折し、次に高速道路沿いに左折して進む。本来の街道は高速道路の向こう側に渡った先にあったのだが現在は見当たらないといわれていたので行かないことにした。暫く進んでいくと右手に高速道路を潜るトンネルが現れるのでそれを潜ろうとしたら向こうからお婆さんが現れる。「えっ!」と驚いていると「この先に牧場がありますか」と聞かれたので「ええ、だいぶ先ですけどあまりすよ」と答える。「トンネルの向こう側にいったのだけど、なにもないので引き返してきた」とのことだった。スニーカーを履いていたが回りは人気がない場所なので不思議なお婆さんだなと思いつつトンネルを潜る。


 トンネルの先で左折して坂道を登る。道の右側は牧草畑のようで草が繁っている。右からの道が合流する地点で右折して進む。暫く進むと左右に奥州街道の道標が現れる。なんと右手にも街道が復活していたのだ。早速右手の街道に進んでいく。見た目には草道に見えるが切り株が多くとても歩きにくい。私は登山靴を履いているので問題ないが、スニーカーのような靴底だと危ないのではと危惧するほどだ。


 街道は牧草畑と林の境目を通っているようで、畑の切れ目が街道の登り口のようである。なお下側には道標がなかった。ここに来るには県道で高速道路を潜ってから高速道路沿いの草道となった管理道路を辿って来るようだ。そういえば築館宿の旅館の主人がボランティアで街道整備の作業をしたといっていたがここなのかなと思い返した。(私が歩く前の1月に、ボランティアの方々が藪を切り開き街道を復活させていたことを後で知った。高速道路手前の復活した街道については気付かずに通りすぎてしまったのだ。残念!無念! (詳細はそのHPで)


 新たな発見に気を良くして先程の右折地点にもどり先に暫く進むと左手に新鹿野(しんかの)一里塚跡が現れる。当時の街道は幅三間だったと案内板に記されている。舗装された街道は下りの坂道となり、昔は砂金が取れたのかなと思える金流川を渡る。暫く進むと交差点となるが奥州街道の道標があるので右手に進む。すると再び奥州街道の道標があり左折するようにとの指示がある。が、その先に十万坂の案内板あるのでカメラに納めておく。その昔、源義家がここの坂で十万梃の弓矢を造って衣川柵の安部貞任との戦に向かったことからその地名が生まれたと記してある。


 道標に従って街道進むと、民家の手前で右折し畑の横を通り、今度は道標に従って左折し草道を進む。やがて街道は鬱蒼とした急な登り坂となる。なるほどここが十万坂なのかと思いつつ登っていくと途中で石碑が現れるのでカメラに納めておく。


 街道はやがて平坦な道となり舗装道路と合流する。暫く進むと左手からの車道と合流する。やや陽が西に傾き始めたので急いで歩いていくと、右手に「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の標柱が現れる。階段になっているのでその先に登ってみると、野立所址の立派な石碑が立っていた。


 街道を暫く進むとY字路が現れる。どちらへ行くのか迷ったが、左を選択してから後ろをみると、なんと道標かあり左が奥州街道であると指示している。正面におけよ!と文句をつけつつ坂を下っていくと有壁の集落にはいる。東北本線の踏切を渡り県道185号線に出て左折して有壁駅に向かう。17時、なんとか日暮れ前に有壁宿にたどり着けた。いろいろ珍しいことがあったな?と汗を拭きつつ宵闇のせまった駅でひとり列車を待つ。今日の旅籠は一関の駅前、田中屋旅館だ。そこには風呂とビールが待っていた。



(11沢辺宿) (13有壁宿)

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