31:伝法寺(でんぽうじ)宿
・今でも小さな集落で店も少なく往時の宿場機能もだいぶことかいていたのでは
・伝法寺館側からの街道は民家の脇を通過して一里塚下を通過できるのか不明だ

 伝法寺---一里塚---馬頭観世音碑---庚申塔---藤島 4.0km
 2014年11月9日





 伝法寺宿は小さな村だったので隣村の藤島宿と半月交代で継立業務を行っていた。集落入口から100m位東の山中に馬立場跡があったと言われているが不明だ。暫く進んでいくと左手に朱色の鳥居が現れる。その先に進むと光明寺が右手に現れる。宿場内には街道筋の面影はどこにもないようだ。


 街道は光明寺の先で左手の国道側にでるため坂道を下る。国道に出る手前の右手の民家の紅葉がもえるように輝いていたのでシャッターを押した。


 国道四号線に出て右手に暫く進むと伝法寺館跡の標柱が現れる。ここに戦国時代の南部氏家臣、津村氏の居城があったとのことである。街道はここで国道の左手(西側)の農道を行くことになるのだが、一里塚を探すため国道を行くことにする。


 約300m位進むと左手に進む道がY字路となって現れる。国道に対して直角に曲がる左手の道をいくか、斜めに進む右手の道をいくのか迷いに迷った。国土地理院の地図は現場の道路と合っていないし、右手の道はその先どこへ通じているのか、左手の道は民家の庭に通じているし、と迷い電子地図を見ると右手の道は藤島への車道であることが判明したので左手の民家の庭に通じている道を選択した。


 民家の庭先を通過して進む。住人の方がいたら挨拶しないとと思っていたが誰にも会わないし、犬にも吠えられない。やがて登り坂となる。ここらで左手からくる街道と合流しているらしいのだがわからなかった。登り坂を進んでいくと右手の山の上が土饅頭的なので一里塚ではと思い凝視したが標柱がない。違うだろうと思い坂を登るとすぐにY字路が現れる。「民家の先」という先達の報告を思いだし、もう一度もどって山に登ってみた。ビンゴ!!、塚の木の反対側に「県史跡一里塚」の標柱があった。


 そこから北側を見ると、そこにも土饅頭があるではないか。しかも、その間には堀跡のような道がある。しかし坂道の下側は藪で覆われていて通行できないようである。一里塚が作られた当時はこの道が街道だったのだ。ところが今の農道兼街道が南側の一里塚の裏側にできてからは、旧街道が通行されないままになったようだ。今の街道は南側の一里塚の裏側を通過しているし、道が下がっているので上にあり「一里塚ぽいところ」にしか見えないのだ。こうした悪条件下にあるので多くの人が見過ごしていたようだ。


 一里塚を後にして坂の上に進むとY字路が現れる。ここを右側に進むのが正解である。私は左手に進んでしまい、どんどん南にいくので引き返し、ここを右に進んで本来の街道を進むことができた。始めは草道だがやがて轍のある農道となり快適な道となる。途中左手に馬頭観世音碑が現れる。


 山越えの街道を進んで行くとY字路が現れる。右手の道を進んでいく。やがて車道と合流するが、その地点に庚申塔が現れる。ここからは車道を進む。暫く進むとY字路が現れるので右手に進むとその先は藤島宿だ。



(30五戸宿) (32藤島宿)

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