41:蟹田(かにた)宿
・蟹田奉行所跡が案内板とともにあるので宿場の趣がかろうじてある
・石浜からは往時の街道であると思われる山側の旧道をいく
蟹田---石浜---磯山---舟岡---鳴川---平舘 12.8km
2015年11月5日
「ようこそ外ヶ浜町へ」の案内板に出迎えられて平舘宿に入る。その先の左手には八幡宮が現れる。その先にはコンビニがあり往時から現在まで宿場として繁盛してきたようでな雰囲気がある。 |
駅まえの通りを左手にはいると、外ヶ浜町商工会館の横に蟹田町奉行所跡の案内板にが現れる。案内板横の空き地が奉行所跡のようだ。1669年に奉行所がおかれヒバ材の積み出しの管理と町内の取締などをしていたが、幕末には大砲を備えた台場の警護もしていたと解説してある。更に北に進むと左手に往時から存在していた長楽寺が現れる。 |
蟹田川に架かる橋を渡り、その先に進むと、信号の先の左手に中貞商店という建物が現れる。ここは太宰治の『津軽』という小説の中に登場する友人N君(中村貞次郎氏)宅とのことだ。「蟹田のN君の家では、赤い猫足の大きいお膳に蟹を小山のように積み上げて私を待ち受けてくれていた」と小説にはある。太宰はここに4泊して歓待を受けている。なお蟹田の名物の蟹は毛蟹のような足の短いトゲクリ蟹だそうである。現在、建物の前にはロープが張られているので空家になっているようだ。 |
その先で街道は左手に分かれるがすぐに合流する。合流地点よりも手前の海側にむつ湾フェリーのプラザトップマストがそびえている。今風の建物で、その横は公園とキャンプ場になっている。その先に進むと左手に観瀾山(かんらんざん)公園が丘の上にあるのだが、そこに行くには、また戻ってぐるっと回り込んでいくことになるのでどこかに階段でもないのかなと捜して進むと、急峻な階段が登場した。登っていくと、かなりきつく、見えていないその先も階段となっているのだ。 |
丘に登って戻るように歩くと、丘の端に太宰治文学碑がある。ここにはアイヌのチャシ(館)があったといわれているように、町も海も見渡せるロケーションで眺めがよい。ということで、ここでも地元の名士がいろいろと石碑を建てている。立て過ぎだろうと思っているうちに台場跡を探索することは忘れてしまった。なお、蟹田にきた太宰はN君たちとここに登り、桜の花の下で重箱をひろげ、ビールを飲んで花見をした語っている。 |
街道は石浜の手前のY字路を左手に入り山側を進む。国道は入江の外を走っている。ガイブブックでは街道が今の国道のように海側にあったとあるが、どうかなと思いつつ進む。集落がとぎれた所に地蔵堂が現れる。 |
やがて川を越えて進むとその先は塩越の集落になる。1686年、この地で津軽藩は揚浜式塩田を開いており街道は塩焼場を通過することからこの地を塩越と呼ぶようになったといわれている。残念ながら集落をカメラに納めてなかった。塩越の集落の外れにくると地蔵堂が現れる。 |
その先の坂道を登っていくと今の国道ができる前はこの道が国道であったことを示すように国道280号の標識が現れる。坂を下って国道に合流して進むと左手に「ゆっくり走ろう平舘村」の塔とその隣に地蔵堂が現れる。いよいよ平舘村だ。 |
街道は国道と分かれて右手に入り、磯山の集落を通る。集落を過ぎると再び国道と合流して進む。ついに陽は没し夜のとばりがだんだんと降りてくる。舟岡郵便局の前を通過し、尻高橋を渡るころにはすぐそこまで夜の闇がせまってきていた。 |
陽はくれ薄闇に包まれた才の神の集落を歩いていると、後ろからきた車から「どちらまで行くんですか」「送りましょうか」と声をかけられた。「平舘までいきますが、歩いていくことにしていますのでけっこうです。ありがとうございます」とお断りした。嬉しかったが事情の説明がうまくできなかった。この場を借りて再度お礼をいっておきます。「声をかけてくれた方、心配りありがとうございます」。歩いている場所も分からないまま街道を進んでいくと、途中左手奥に赤い鳥井が見えた。野田の天満宮であろうと思いシャッターを押しておいた。近くには玉泉寺とか道の両側の松などが見えるはずなのだが暗くて何も分からない。 |
暫く進むと平舘の郵便局が薄明かりの中に現れる。17時30分、ついに平舘宿だ。遅くとも17時までには到着できると見込んでいたのだが駄目だった・・・・。人通りの無い闇の中、郵便局の先で左折して緩い坂道を登っていく。17時40分、不老不死温泉に到着。 |