13:有壁(ありかべ)宿
・佐藤本陣が保存されていて、往時の山中の有壁宿の姿がよみがえってくる
・山越えの街道はなかなか情緒があっていい、復活した街道を歩いてみたい
・鬼死骸、鬼石と伝承されているが坂上田村麻呂はこの地でなにをしたのだろうか

 有壁---肘曲がり坂---馬頭観世音---瑞川寺前---一関 8.3km
 2010年10月8日、2016年11月1日





 8時30分、田中屋旅館をたち東北本線で無人の有壁駅におりる。県道185号線を戻り踏切のところで左折すると、萩野酒造の前にでる。ここは脇本陣を勤めてきた家である。


 その先に進むと有間川を渡り、右手に往時をそのままにとどめる有壁宿佐藤本陣が現れる。有壁以北の松前氏、津軽氏、八戸南部氏、盛岡南部氏などが宿泊したところであり、関札などの資料が残っているという。白壁と櫺子格子の戸、黒板塀が貴賓を漂わせている。よくメンテナンスされているようでほころんでいる箇所はない。その横にはこの道が奥州街道であることを示す道標がある。


 先に進むと宿場内には白壁の家が点在していて懐かしく感じる。有壁宿を後にしてゆるい坂道を登っていくとやがてY字路となり左へ進む。街道は林道となり、暫く進むと肘曲がり坂の案内板が現れる。江戸時代は多くの人が往来したが陸羽街道ができると往来がなくなり廃道となったと記されている。いよいよ今回の最大の難所である山越えだ。


 ここからは山道となるが、結構整備されているので歩きやすい。しかし、熊が出る可能性もあるので缶コーヒの空き缶を叩いて歩く。街道横には白いキノコが生えていた。途中倒木が行く手を阻んでもいた。街道は田圃を横切って進み、青い作業小屋の前を通過していく。右手からくる道に出会う箇所が県境で岩手県の看板があり、ここからは岩手県に入る。風の音と時々鳥の鳴き声がする他にはなにも聞こえないのが寂しい。


 その先進むと標識が林立するT字路にでる。ザワザワという風の音が不気味に聞こえるので急いで斜め左に進む。やがて陽のさす明るい道になる。道なりに進み左カーブの先にいくと右手に水田のようなものが見えるが気にせずに進むと、その先に民家の屋根が見えてくる。「あれれ、おかしい」。


 さっきのは水田ではなく溜め池なのだと気づく。溜め池地点に戻ってみるが、右手にいく道がまったくない。背の長けもある雑草で覆われており足を踏み入れる隙間もないほどだ。復活していると築館の旅館の主人がいっていたんだが・・・・。街道は復活しておらず、失われたままであることを確認して左手へ進むことにする。 (この直後の11月に、ボランティアの方々が藪を切り開き街道を復活させたことをこの文を書きつつ知った。残念!無念! 詳細はこのHPで)


 左手の脇道は(株)ミチノクの横を通過し県道260号線に接続する。ここで右折し、その先のバス亭、鬼死骸という不気味な名前のところで県道と分かれて右手の坂道に入って進んでいく。右手に力建リフォーム工業の建物が見える突き当たりの所が街道である。右手に進んでみると街道だった所はまったくの藪となっており人を寄せつけない。


 (2016年11月1日、復活した街道を確認に再び訪れた。廃屋となった力建リフォーム工業の前は草が伸びていたがまだ歩ける。少し歩くと街道を示すように杭がたっている。草が茂った坂道を登っていくと平坦な杉林となる。が、やがて篠の藪となり沼の近くで行く手を阻まれる。戻って(株)ミチノクの横を通する迂回路を通って沼の反対側にいってみたが草が茂り復活した街道ルートは見つからなかった。残念!)


 諦めて一ノ関に向かって先に進むと左手に馬頭観世音が立っている。再び県道260号線に出て右折、その先でまた右折して暫く進むと田圃の横に兜石(女)、兜石(男)、背骨石、肋石が並んでいる(名称板が草に覆われひっくり返っていたものもあったので直しておいた)。坂上田村麻呂がこの地で鬼を退治し死骸を埋めたとの伝承からこのように名づけられたようだ。県道に戻って進むと左手の田圃の中にも鬼石といわれる大きな石がある。


 この先の街道は鉄道と県道で寸断されている。県道を200m位進み左手に折れて東北本線の踏切を越え右折すると街道となり、その先の左手の空き地に明治天皇小次遺趾碑と的場清水がある。しかしこの清水はトタン屋根も崩れかかっており今にも消え入りそうである。的場清水を後にして暫く進んでいくと東北本線のガードが現れるので、ここで右折してガードを潜り、左折して進む。


 その先の左手には豊吉の墓が現れる。1785年、地元の16人の医師たちが処刑された豊吉の遺体を研究のために解剖した。東北ではもっとも早い医学的解剖だったといわれている。元々この墓は橋田原刑場跡にあったと案内板に記してある。


 この付近で街道は東北本線の左手を通過していたが今は消失しているので車道を進む。車道はやがて東北本線のガードを潜って左手にでるが、その手前の歩道のガードを潜り瑞川寺前の街道にでる。ここでは線路の左手に街道が復活しているが南側は400m位先で消滅しているらしい。寺の前から北に進むと街道は市立南小学校の角に突き当たるので右に迂回して車道を進む。


 600m位進むと迫街道の追分が現れる。迫街道に入っていくと左手に庚申塔(左)と追分石(右)がある。平泉から帰って来た芭蕉と曾良は、この追分通って岩出山(宮城県)へと向かって行ったと案内板に記されている。


 その先に進むと祥雲寺が現れる。階段の左手には「日本の道百選 奥の細道 台町」と書かれた大きな標柱が立っているので、迫街道の先を見て暫し芭蕉の後ろ姿追いかけたみた。階段を登り進んでいくと門前右手には地蔵尊が現れる。「明和四年」、「右岩ヶ崎、左仙臺」と刻まれている。この地蔵尊は、迫街道の追分に道標を兼ねてあったものを移設したとのことである。


 祥雲寺は一関藩主・田村氏の菩提寺を旧領岩沼から移したもので、本堂の他に八角形の一切経蔵がある。蔵内には伊達政宗の側室・保性院のものとされる豪華な廟がある。境内奥の丘の上に行くと「播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩公供養之塔」が現れる。松の廊下で刃傷事件を起こした浅野内匠頭は、新橋にあった一関藩田村家の上屋敷で切腹した。それが縁で後年、赤穂市と一関市は姉妹都市となったことによるものとのことだ。切腹した所の大名家など覚えていないので「へえ~」と感心した。祥雲寺を後にして追分にもどり、先に進むといよいよ一関宿に入る。



(12金成宿) (14一関宿)

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