34:野辺地(のへじ)宿
・盛岡藩の海の玄関として栄た町で御用銅、海産物、大豆などが上方方面に送られた
・鳥井平の右手には戊辰戦争(野辺地戦争)の戦死者の墓がある

 野辺地---鳥井平---馬門 3.0km
 2015年5月27日、28日





 宿場に向かって進んでいくと右手に赤い鳥居が現れる。鳥居の脇には1768年に祀られた青面金剛と不動明王がある。その先に進むと中野の追分で分かれた近道が左から合流してくる丁字路となり、右折して宿場内へと入る。


 宿場内を進み、郵便局の手前を左折して進むと江戸時代初期に伊勢神宮の御霊分を祀った神明宮が現れる。その先に進むと図書館脇に野辺地代官所跡が現れる。


 宿場内の本町通りに戻ると、幕末ごろには回船問屋の野村治三郎によって3000本の御影石がメーンストリートに敷かれていたことが案内板に記されている。その御影石は愛宕公園の石段として現在使われているとのことである。また、市役所の隣には明治天皇の行在所となった豪商・野村治三郎宅の離れと庭園が保存されている。


 17時20分、今日の旅籠であるビジネスイン倶楽部に到着。夕飯は無いので外で食べ、風呂はなくシャワーのみ。寝れるだけで良しとしよう。


 5月28日9時前に出発。今日も天気がよく、日陰がないのがつらい。街道は県道243号を西に進んで行くと突き当たりに野辺地八幡宮がある。本殿は1714年に再建されたものである。また境内にある金毘羅宮本殿は回船問屋たちが海上安全を祈願して1822年に寄進したもので、現在は鞘堂に納められている。


 野辺地八幡宮を後にして街道を進み、ベイライン大湊線の踏切を越え、その先で右折して海岸へと向かう。海岸にでる手前の十字路の左手に遠見番所跡がある。江戸幕府により外国との通商・交通が禁止されていたために外国船を監視する施設を南部藩が設けたものであると記されている。


 海岸の奥には浜町の常夜燈がある。1827年回船問屋の野村治三郎によって建てられたもので、関西の橘屋吉五郎の協力をえて海路運ばれてきた。毎年3月から10月まで夜毎灯がとれされ、野辺地を行き交う船を見守ってきたと、案内板に記されている。また、近くには江戸時代の航路や秋田・尾去沢から野辺地湊を通り大阪に運ばれた御用銅の道などの案内板がある。


 街道にもどり野辺地川を渡って鳥井平に進むと、右手に野辺地戦争戦死者の墓所が現れる。明治元年9月22日夜半に官軍側についた津軽藩180人が攻めてきた。南部藩・八戸藩連合軍はこれに応戦し撃退した。夜明けまで続いた戦いで津軽藩の軍勢は40余名の死傷者をだして敗走した。盛岡藩はその後伊達領白石に転封された。この墓は翌年に津軽藩が戦死者27人の名を刻んだ墓石を建てたものであると、案内板にある。墓所を後にして街道を進み右手に海が見えてくるとその先は馬門宿だ。



(33七戸宿) (35馬門宿)

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