36:小湊(こみなと)宿
・藩政時代を感じさせるものは松と欅と代官所跡などだ
・現在の善知鳥崎はコンクリートで補強されているが波に浸食され穴が開いていた
・野内宿までの国道四号線が新規にバイパスとして造られたため地図が対応していない
小湊---前田---御番所跡---浅虫温泉---善知鳥崎---野内 18.2km
2015年5月28日、29日
小湊川を渡って緩い坂道を登ると丁字路となり宿場の中心にでる。そこを右折して進むと左手に浄尊寺が現れ、山門の横には推定樹齢500年(室町時代から)の大欅がある。 |
その先には推定樹齢400年の御家中の松がある。更にその先に進むと、高橋竹山の碑や歴史民族資料館がある。資料館の前には平内代官所跡の標柱がある。この付近一帯は藩政時代には代官所や武家屋敷があり御家中と呼ばれていた、と案内板にある。 |
先程の丁字路にもどり、進んでいくと右手に平内町役場が現れる。敷地内の松の木の横に竹内家跡地の標柱があり、役場の玄関横には明治天皇行在所跡の碑がある。竹内家とは江戸時代の豪商竹内与右衛門の家のことで、明治天皇の行在所ともなったことを示している。街道は家並みの中を進む。 |
街道は国道四号線を横断して進み、左手に赤い家とカーブミラーのある所で右折する。道が細い路地のようなので戸惑っていると地元のおばさんが通りかかった。聞いてみると「この道は昔の街道だった道ですよ」と教えてくれた。お礼をいって右折して進む。 |
暫くすると左手の土手の上に天明の飢饉供養塔と案内板が現れる。天明の飢饉(1782年?1785年)で平内でも沢山の人が餓死し、半数の357戸の家が空き家になったという。この飢饉で亡くなった人々を供養するため1787年に東福寺住職が供養塔を建てたと記されている。大変な時代があったんだなと思い、合掌!街道は静かな道を進む。 |
藤沢で右折して進み、国道四号線に合流して西へと進む。国道の轟音を聞きつつ暫く進むと前田地区に入る。左手の路地が街道と判断されるので左手に進む。家の並ぶ路地を進んでいくとやがて再び国道四号線に出る。そこには奥州街道の標柱がたっている。今日のウォーキングは西平内郵便局までとする。 |
右折して青い森鉄道の西平内駅から隣の浅虫温泉駅まで行き、宿屋つばきに泊まる。温泉に昨夜の分までつかり、それなりに豪勢な食事となった。 |
5月29日9時に西平内駅を出発、街道にもどって進む。国道である青い森鉄道の跨線橋を進んでいったが、家ノ下地区の先からバイパスに入ってしまった。おかしいなと思って左手をみると進入禁止となった旧国道があるのでそこに入ってみた。進入禁止なので車はこないのでゆうゆうと歩ける。しかし行き止まりになるのではと疑心暗記で進む。左手の事業所に人がいたので「このまま進んでいけますか?」と尋ねると、「ずっといけば国道にでます」と教えてくれた。バイパスが現国道四号線であり、旧国道は進入禁止なっているのだとわかった。しかし国土地理院発行の地図には古い国道しか書いてないのが不満だ、有料なのに。 |
旧国道を南下して土屋地区入り右手に進む。ほたて広場が海側にあるのだと勘違いして捜し回り、時間を浪費してしまった。国土地理院発行の地図とは道路も地形も変わっていたのだった。街道をそのまま進むとほたて広場が現れる。店の前には土屋御番所由来という案内板がある。黒石藩が領界警備のため1656年平内領西口に設置した番所であると記されている。 |
ほたて広場を後にして街道を進んでいくと右からくるバイパスと合流するが、その先で県道259号線となって左手に分かれて進む。この分岐点にコンビニがあるのでここで昼食を買い込む。他にコンビニはないと仲居さんが教えてくれたところだ。浅虫温泉駅の前を通過し温泉街を進んで行き、浅虫橋の手前で左折しガード下を進むと津軽藩本陣跡の柳の湯や棟方志功がよく訪れたという椿旅館がある。なお、もとは麻蒸の湯と呼ばれており、もっと山側にあったとのことである。 |
浅虫温泉を後にして海岸沿いの街道を進んでいくと善知鳥(うとう)崎にでる。トンネルの右手が往時の街道で岩場に梯を渡して通過していたという。そのため越後の親不知・子不知と並び称される難所だったといわれていた。今はコンクリートで整備されているのだが行ったら進入禁止に、道の途中に穴が開いていたのだった。波に削られたようで、そこを避ければ容易に歩ける。途中の左手には明治天皇御休所跡碑がある。 |
なお、トンネルの入口の海側には古戦場碑がある。進入禁止があって見落としていたが草に隠れてひっそりとたっていた。源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の仇討ちとして、出羽の豪族・大河兼任が鎌倉軍に対して最期の抵抗をした場所だといわれている。出口の案内板にはそれらのことが記されている。街道はトンネルの出口で国道四号線に出るが、その左手にある廃道となった旧国道を南下する。 |
久栗坂の信号で国道四号線の右に進む。集落の中を暫く進み集落の最後の方で右手の路地に進むと観音寺にでる。境内の入口の右手には綿木之塚がある。930年ごろ、善知鳥文治安方の妻錦木は、夫のあとを慕ってこの地まで来たが死んでしまい、村人があわれんで塚に埋め、一本の桑の木を植えて印しにした。大正年間に現在の石碑に建て直したといわれている。また場所も現在とは違っていたようだ。なお、観音寺の奥にはいろいろな石仏がある。 |
観音寺を出ると隣に不動尊があるのでそこに登り昼食にする。小高い山の上のお堂の側の木陰でおにぎりと大福を食べ、お茶を飲んで一休み。 |
街道にもどったところの右手に川上神社の鳥居と1848年の大きな庚申塔がある。その先の右手には採石場があり山が崩されているのが見える。なんだか辛い気分だ。登り坂を進み、下っていくと右下に青い森鉄道の線路が見えてくる。その近くの建物の前にバス停があるがそこは旧「野内駅前」であった。街道はその手前付近で線路の西側に下っていったのだが、今は駅の移動にともなって街道の跡も駅跡もなくなっている。残念に思いつつ先に進み青い森鉄道のガード下を通過する。その先は野内宿だ。 |