23:盛岡(もりおか)宿
・盛岡城跡、大慈清水、茣蓙区、志波城跡、夕顔瀬橋、過日を偲ばせるものがいっぱいだ
・盛岡城跡には石川啄木の歌碑があり、明治の面影もある
・街道には往時の一里塚がほぼ残っており、山や谷もあって歩きがいのあるコースだ

 盛岡---上田一里塚---小野松一里塚---笹平一里塚---渋民 19.3km
 2014年6月21日





 ホテルエースを8:00に出発し、盛岡宿の外れにある志波城跡を見学しておくことにする。駅前のバス停から志波城跡行きに乗り、30分程度。バスを降りると目の前に古代の城柵が現れる。志波城はアテルイが降服した翌年、803年に坂上田村麻呂によって蝦夷支配のために築城された城柵である。840m四方の塀に囲まれ、中央には政庁が配置されていた。現在は正面の塀と櫓、溝、政庁が復元されている。巨大な城柵だったが北側の雫石川の氾濫に度々あい、10年で徳丹城へと引っ越してしまったとのことである。平安時代の面影を残す城柵を一人見入っていたのだが、その前では老人会の方たちがゲートポールを楽しんでいた。帰りはタクシーで明治橋までもどる。


 明治橋を渡り右手に進むと船橋跡案内板と明治橋碑が現れる。往時は20艘ほどの小舟を繋いだ船橋が架かっていたこと、明治になって木造の明治橋が架かっていたと解説されている。その先には盛岡藩の大きな米蔵が現れる。一つしか残っていないが、往時は御番所、船宿、制札場、御蔵が立ち並ぶ北上川舟運の新山河岸だったところだ。


 明治橋を渡ったところに戻り、右手に折れて鉈屋町を進む。右手の櫺子格子の町家の壁に鉈屋界隈案内という絵図が掛かっている。そこには奥州街道と遠野街道、その名所などが示されており、市内見学にはなかなか有効だと思った。その先に進むと遠野街道との追分である丁字路に出る。右手に進んで遠野街道を見学する。櫺子格子の家が現れ、街道筋の面影を感じる。暫く進むと右手に大慈清水という水場が現れる。共同の井戸として使われている場所で、飲料水、米とぎ場、野菜食器洗い場と区分されている。その先に高い塔が現れたので、何かと思ったら消防番屋の火の見櫓だった。


 そこで左折し遠野街道と分かれて暫く進むと五智如来と十六羅漢が配置された羅漢公園が現れる。21体の大きな石仏がぐるりと囲んでいる場所で、元禄・宝暦・天明・天保の飢饉で亡くなった人たち(約20万人)を供養するために江戸時代に13年をかけて造られたものである。合掌! 街道の追分にもどるため、永泉寺、大慈寺の前を通過して進むと、左手に清龍水という清水が現れる。ポリ容器を何本も持参して清水を詰めている人がいたので飲めなかった。


 追分に戻り、丁字路を左手に進むとその先の右手に盛岡城警備惣門遺跡の碑が現れる。ここに盛岡城の南の入口だった惣門があったとのことである。その先には、天保五年(1834年)に建てられた県指定有形文化財の木津屋が現れる。正面がら見ると白壁が美しい建物だ。


 二丁目の信号を渡り直進して進み突き当たりを右折すると盛り場に入る。暫く進むと交差点の左手に旧第九十銀行本店本館が現れる。明治43年の建築で、今は啄木・賢治青春館となっている。その先に進むと中ノ橋の交差点の左手に旧盛岡銀行本店の赤煉瓦の建物が現れる、はずだったが工事中でまったくその姿は見えない。写真が掲示されていたのでそれを写して代わりにする。


 中ノ橋を渡り盛岡城跡を見学する。当日は写生会が行われていて子供や大人が城跡内のいたるところで絵を書いていた。その横を抜けて本丸のところに登って行くと銅像のない台座が現れる。南部家42代南部利祥の像は戦時中に供出され消失したと説明がある。二の丸に行くと啄木の歌碑が現れる。「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」と刻まれている。この城跡に寝ころんでいたのかと暫し思いを馳せる。城跡の最後にもりおか歴史文化館に入ってみる。壁一面に拡大された盛岡宿の図が掛かっている。


 街道にもどり北へと進むと、ゆるくカーブした曲尺手が現れる。そのカーブの左手には茣蓙九という店が現れる。灯明の芯や藁製品を商っていた豪商・沢井屋九兵衛の店だった建物で、往時の風情を残している。中ノ橋から上ノ橋にかけては盛岡城下の中心街として栄ていたところであり、豪商たちの店が軒を連ねていたところである。しかし今は街道筋の面影はかすかに残しているだけだ。その先に進むと大正時代に建てられた洋風木造建築の紺屋町番屋(市消防団番屋)が現れる。その先に進むと菊の司酒造が現れる。石鳥谷の七福神がここに移されて製造されているらしい。


 その先に進むと左手のマンションの前に鍛冶町一里塚跡碑が現れる、のだが私は右手を歩いていたこともあって、マンションのモニュメントかと思い気づかなかった。もっと先にあるものと思い込んでいたこともあって見逃してしまったのだ。街道を進むと丁字路となり左折する。この当たりに一里塚跡があるはずなのだがと捜しつつ歩いたが当然にも見当たらなかった。上ノ橋を渡る。木製の欄干と青銅擬宝珠が往時を忍ばせてくれる。この擬宝珠は1609年当時の現物だとのことである。


 本町通一丁目を暫く進むと、左手の北日本銀行の広場でイベントが開かれているようで、飾りを沢山つけたチャグチャグ馬っこの馬がいた。初めて見るので記念にシャッターを押しておいた。街道を先に進むと信号のある交差点、右手の理容オオシダの前に「是よりは小本街道 牛追のみち」と刻まれた石碑が現れる。小本街道は内陸の盛岡と沿岸の小本を結ぶ塩の道であり、早坂峠の難所を牛を追って塩を運んでいたとのことである。そしてあの有名な南部牛追唄の生まれたところでもあるのだが、ただ石碑があるのみでは寂しすぎる。「田舎なれどもサーハーエ 南部の国はサー 西も東もサーハーエ 金の山 コラサンサエー」。


 街道を先に進むと、三丁目の角「亀屋」のカンバンがかかった所を右折し、その先二つ目の角を左折すると四ツ屋惣門という盛岡宿の北口に出るのだが、夕顔瀬橋に行くためにパスしてしまった、反省。


 街道から西にずれた夕顔瀬橋にはカッパの伝説が案内されていたがそれは省略。西の橋の袂には橋の由来が記されている。源頼義と安倍貞任とが戦った前九年の役の決戦はこの盛岡の地にあった安倍軍の厨川柵で行われた。1062年9月、安倍軍は瓜に目鼻を描いた藁人形を武者に仕立て川原に並べるという作戦に出た。しかし柵は火攻めにあって敗北、武者人形は北上川に投げ込まれた。顔を描かれた無数の瓜が川面を漂ったということから、「夕顔瓜(うり)」にちなんで「夕顔瀬」とよばれるようになったとのことである。因みに厨川柵がどこにあったのかについてはいまだ確定していないらしい。


 夕顔瀬橋から街道にもどりかけたら、カレーライスのカンバンのかかったぼっち亭という店があったので昼食タイムにする。家庭的なカレーと冷たい水でエネチャージして出発。「熱中症に気をつけて」と送り出されたので足も軽くなった。いよいよ盛岡宿を離れることになる。県立中央病院の交差点にもどり、そこを左折して街道を進む。街道は真っ直ぐな一本道だ。やがて盛岡バイパスと交差するが歩道は地下道となってバイパス下を通過。日差しが厳しいので日陰を歩きたいが日陰がないのが辛い。


 車道となった街道を暫く進んでいくと、緑が丘四丁目の左手のショッピングセンター・カワトクの前に上田一里塚が現れる。江戸から140番目になる塚だが、東側の塚は消失し西側だけ残っているものだ。その先には松並木がある。以前からのものではないようだが、並木があるだけでもうれしいものだ。


 街道を歩いていると左手に岩手山が開けて見えてくる。バス停・岩脇団地前の先には岩手山を展望するための公園があったので、一応カメラに納めつつ一息つく。山の頭に雲がかかっているのが残念だ。


 その先の東黒石野では、街道は左手の金網の切れた箇所を降りていく。見過ごさないよう要注意だ。車止めを通過して車道を横断して進んでいくと、松屋敷からは長い登り坂となる。


 街道は再び車道と合流して進む。暫く進むと左手に小野松一里塚が現れる。反対側を見ると西の塚も健在である。私はここで気分をよくし、地図を確認しないでどんどん歩いてしまい、ダムの入江を迂回する道に入ることを忘れて直進してしまった。街道は橋を渡った先でダムの底に沈んでしまったので、この車道をそのまま進み二つ目の橋、観音橋を渡る。


 観音橋の先の左手には二十三夜塔などがならんでいる。山の中の道をもくもくと進んでいく。やがて行く先に赤い橋が見えてくる。地図をみると橋の手前でダムの底からの道が復活し、橋を渡らずに街道は右手に進む。正面に岩淵第二発電所の水道管が見えてくる。


 街道は左にカーブして川を渡る。この川の付近に笹平一里塚があるのだ。橋を渡った先に、新たに川岸に降りていく道のような盛り土が現れる。進入禁止の鎖があったがそれを越えて進むと川岸に出る、が一里塚がどこにあるのかわからずもとの車道に引き返す。その先に進むと左手の農家への道に一里塚への道標がビニールで覆われている。不思議に思ったがあきらめずに農家の方に聞いてみると意外にも、「国土交通省が埋め立てをしたので道は途絶し一里塚へはいけなくなった」といわれる。さらに「塚は一つしかないので本当に一里塚かあやしい」とまで言われてガッカリ。先程の盛り土の所までもどってもどこにあるのか分からないのであきらめることする。その後の調査によるならば、車道下のこんもりした木の所に一里塚があるらしいので川岸づたいに歩いて探すしかないようだ。


 あきらめて再び街道をもくもく進む。山を登り、やがて下っていくと遠雷が聞こえてくる。柏木平の広大な水田の左手には岩手山が雲をかぶっている。すると、ポツリポツリと雨が降ってきた。ついに夕立かと思い傘を開く。ザーと来るかと思ったらポツリポツリのままだった。工業団地の坂を下るころには雨は止んでしまった。しかし、喉が乾いたのでどこかの工場の前のペンダーで水を補給する。


 街道は渋民バイパスの下を通過して進む。国道四号線にでる200m位手前の右手の民家の前に渋民一里塚跡の標柱が現れる。庭の一部になっている盛り土が塚の姿を微かに残している。いつかは壊されてしまうのではと心配だが・・・・。一里塚跡を通過して先に進むと街道は国道四号線と合流する。その先は渋民宿だ。



(22日詰郡山宿) (24渋民宿)

ホーム松前道>盛岡宿