24:渋民(しぶたみ)宿
・渋民宿は江戸時代の面影はなく、明治の啄木の面影が強く残っている宿場だ
・芦田内一里塚先の川の越え方はわかったが、町で早く橋を架けてもらいたいものだ

 渋民---新塚一里塚---二ツ森一里塚---芦田内一里塚---沼宮内 16.4km
 2014年6月21日、22日





 17時50分、車の多い国道四号線を少し進むと右手に愛宕神社の鳥居が現れる。石川啄木は神社を包むこの森を「命の森」と呼び、その下の渋民尋常小学校で教鞭を取っていたと案内板にある。宿場内には街道筋の面影はまったくない。参勤交代でここを利用したのは松前藩や八戸藩ぐらいだったので宿場も小さかったからでもある。


 その先の交差点の右手には石川啄木記念館が現れる。時間も遅くなったのですでに閉館されている。2007年4月にここを尋ねたことがあり、若き日の啄木の等身大の人形があったのが印象的だった。


 その横には移築された渋民尋常小学校と、啄木が家族と共に住んでいた借家である旧斉藤家がある。この斉藤家の屋根は以前見た時には大分いたんでいたが、今はきれいに修繕されている。また庭には子供と話している啄木像がある。


 記念館をカメラに納めてから、今度は西に200m位進み啄木の歌碑がある渋民公園に向かう。現在の小学校を過ぎた先の右手に公園があり、その奥に歌碑が現れる。「やはらかに柳あをめる北上の 岸辺目にみゆ 泣けとごとくに」と刻まれている。この歌碑の奥には北上川が流れているのだが、焦っていてすぐに街道に引き返す。


 今宵の泊まりは宿場外れにある民宿・竹乃屋だ。そこに向かう途中、街道の右手に大きなスーパー・イオンがあるのでお茶菓子などを調達する。いろいろあったがミスドのドーナツを買い込んで竹乃屋にたどり着く。夕食時の宿のご主人との話で、街道を歩いている人の話となり百街道一歩さんが来たことを紹介していたので、「私も一歩さんのHPをみてこの民宿をしった」といったら納得していた。また、この先の山越えでは熊が出るかもしれないことが話題となり、秋の方が出会うと怖いと教えられ、ホッとした。


 6月22日8時30分、御堂を目指して出発。街道は今日も天気がよく日差しが厳しい。渋民宿を後にして暫く進むと右にカーブする手前の右手に新塚一里塚が現れる。左手の塚はない。多分車道を造ったときに消滅させてしまったのだろう。


 その先に進むと左手に松の木が立ち、街道はその方向かと迷ったら、そうではなく、そのまま車道を進みその先で右手にいくのが江戸時代の街道だ。沢田地区を進んでいくと左手に石碑群が現れる。その先には往時飛脚便の中継店があったとの案内がたっている。さらにその先には桜の木が4、5本並び植樹した有名人の名が添えられている。私の知っている人では「愛と死を見つめて」の「青山和子」さんだけだったがどういう関係なのかどこにも記されていない。


 その先の状小屋地区コミュニティセンター横で立て札を見ていたら地区の会長さんに遭遇し、街道の説明があった。ここには江戸時代のこの道の他に、もっと山側に江戸時代以前の道があり、またこの下側にも車道となっている明治以後の道と、三本の道が走っていること、しかし山側の道は人が歩かなくなって藪になってしまっているとの説明があった。北上川の暴れのせいだとのことだった。また街道の立て札は自分たちが造って立てたことなどが紹介された。いろいろな話にお礼をいって先に進む。


 街道は再び国道四号線に合流する。その合流地点の右手に「アズキとぎ石」とその伝説についての案内板が現れる。この石の前を通るとザック、ザック、ザラー、ザラーという音が聞こえて恐れられ、その対策として近くに地蔵堂が建てられたと解説されている。今は車の音でそれどころではない。


 巻堀地区に入り、暫く進むと信号の右手に巻堀神社が現れる。神社の境内には男根石と女陰石がいくつも奉納されている珍しい神社だ。この神社はかつては金勢大明神とも呼ばれ、金属製の男根像が祀られていたとのことである。長者の娘の伝承からするなら夫婦円満を願って祀られているようだが、由緒書きがないのでいま一つ不明だ。なお、境内には相撲の土俵も造られている。


 暫く進むと才津沢の交差点の左手にの一角に、一字一石一札供養塔が現れる。東北地方は昔からしばしば凶作や飢饉に見舞われてきた。その際の死者を供養するために法華経典を一石に一字ずつ書写して供養塔の下に多数埋めたものであり、1778年に明円寺の和尚によって建立されたものである。このあたりで大勢の死者が出たことからなのだろうなと思いを馳せる。合掌!


 街道はラーメンたけちゃんの先で国道四号線と分かれ、直進していく。その前にこのラーメン屋の前の電柱の横に二ツ森一里塚跡の標柱があるのだが、私はラーメン屋に気を取られてうっかり見過ごしてしまった。写真を拡大するとその標柱の横顔が写ってはいるのだが・・・・。


 川口地区に入ると左手に、広島の原爆で亡くなった大女優・園井恵子の像があるといわれているのだが、これも見落としてしまった。集落内にはナマコ壁の土蔵とか櫺子格子の建物があり街道筋の匂いがした。


 集落を抜け古館川を渡って坂道を登っていくと、右手に川口城跡の案内が現れる。川口氏は、祖を川村氏といい、1189年源頼朝の命によりこの地に移住し築城、川口氏と改名。1665年八戸へ移住、八戸南部藩主より400石を賜り、後に家老となる、と案内板に解説されている。城跡への道を進んでいくと栗畑が現れる。「あれ~」と見回すと城跡景観整備事業の杭がたっている。平成14年とあるので助成金目当てのインチキ事業だったのか。


 街道は銀河鉄道を越えてから、野原集落を鉄道沿いに進む。日陰をまったく無くしてしまった道を進んでいくと、集落の中頃、左手の民家の庭に明治天皇の御小休之趾の碑が建っている。集落を抜けると街道は国道を横断して進んでいたようなのだが、消失してしまい不明確なので国道を進む。


 国道四号線を暫く進んでいくと北上川を渡る手前の右手に踏み切りが現れる。右折して踏み切りを通過すると車も来ない道となる。暫く進むとY字路の正面に芦田内一里塚入口の標柱が現れる。左手に進むと街道は民家の駐車場となり、その先の川でとぎれている。駐車の右横の草藪の中に芦田内一里塚の標柱が現れる。塚があるのかないのかは夏草に覆われていてわからない。また川も藪となった草で覆われていて近づけないようだ。


 グーグルマップの航空写真では左手の方に橋らしきものが写っていたので調査して見ようと民家の庭に入る。人がいたら挨拶しようと捜したが誰も見えない。庭を通過して川に向かうと、ビンゴ。民家用の橋があった。橋を渡り、川沿いにもどると街道の続きの道となる。そこには芦田内番屋跡地の標柱が建っている。先達がいろいろ苦労した川越が簡単にできてしまい、うきうき気分で農道となった街道を進む。


 すると後ろから自転車のおじさんがきて「一里塚を見に来たんですか、近頃は見に来る人が多いんですよ、埼玉とか東京から」と声をかけてきた。先程の民家の方のようだったので「誰も居ないようだったので挨拶もしないまま、橋を渡らせてもらいました。失礼しました。」と謝ったら、「いや~いいですよ」と理解してくれた。「町に橋を架けてくれとお願いしているがなかなかやってくれないので、自費で街道とは違う箇所に橋を架けたんだ」と説明してくれた。「観光のためにもなるんだから町も橋をかけるべきですよね、応援します」と応じた。そんな話をしながら暫く国道を一緒に歩く。おじさんは「これから友達といっぱいやるんだ」といって途中で分かれていった。


 街道は銀河鉄道の右手にあったようなのだが消失しているので左手の国道を進む。やがて国道はY字路となり、街道は国道と分かれて右手に進む。線路沿いを暫く進むと左手にJOISというショッピングセンターが現れる。暑いのでとにかく冷水を補給しようと入ったが、入り口の涼しい箇所にベンチもあるので、ここでランチタイムとする。冷たい水が何よりのご馳走だ。一息入れ、エネチャージしたら街道にもどり進む。暫く進むと右手に沼宮内駅が現れる。街道の左手には北上川が流れている。街道は右カーブし銀河鉄道と東北新幹線を越えて進む。その先は沼宮内宿だ。



(23盛岡宿) (25沼宮内宿)

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