38:青森(あおもり)宿
・古くからの神社や寺、標柱があるが、往時の面影がを感じさせるものがない
・街道にはこれまでには無かった地蔵堂と百万遍供養塔が頻繁に現れる

 青森---市役所前---新田---油川 5.8km
 2015年5月29日、11月4日





 街道を進むと塩町の標柱が現れる。県立郷土館の前に進むと大町の標柱と案内板が現れる。この付近は1673年の絵図には本町とあり、1826年の絵図には大町と記され、繁華街だったとある。


 県立郷土館の先の信号を左折して二つ目の信号の先に、青森のなかで一番古く、善知鳥村が青森村と改名され、ようやく町ができ始めた1626年に建立された正覚寺がある。本堂前の石燈籠は戦後に芝・増上寺から下付されたものだ。それにしても善知鳥崎からだいぶ離れているのになぜこの地が善知鳥村といわれたのだろうか。街道に戻る途中に太宰治の学生時代の下宿地の案内板があった。


 街道に戻り、柳町通りを越えていくと焼きとり屋一心のある丁字路となる。往時には札の辻と呼ばれ正面に制札場があった。なお、その手前左手に棟方志功生誕の地を示す案内板がある。


 札の辻から南に進むと近くに善知鳥(うとう)神社がある。その前に「奥州街道終点記念の碑」がある。案内板には江戸初期に著された幕府撰慶長日本図によると安方(青森市)が終点とされているとのことである。また、そのそばに大正十一年の「青森市道路元標」がある。青森ではここから三厩までを「松前街道」と呼んでいたようだ。


 青い森公園の西側にある県庁南棟の玄関脇に御仮屋跡の碑がある。青森は、1624年弘前2代藩主信枚(のぶひら)の命で大浜(油川)に代わる湊と町造りが開始された。1671年この地に御仮屋(城)が築かれ城代が置かれて蝦夷地への前線基地としての役割を担った。


 街道にもどりアスパム通りを進むと、右手に三角の珍しい建物が現れる。青森県観光物産館アスパムだが、随分と大胆な建物だと感心する。青森駅の手前右手に木造の旅館のような家があったのでシャッターを押しておく。その先に進むと青森駅だ。平屋建てのようで意外とこじんまりとしている。連絡船などに乗り換えもしていたのだからもっと大きな駅舎があると思っていたので意外だった。


 11月4日11時30分、青森駅から松前道てくてく旅の再開だ。駅北側の青函連絡船、八甲田丸を見に行く。青函連絡船は青函トンネルの開通で1988年に廃止された。ベイブリッジを潜ると展望台があるのでその上に上がると八甲田丸がよく見えるのでカメラに納める。またベイブリッジもいい構図撮れる。下に降りてみると近くには青函連絡船戦災の碑があり、空爆されている絵があったが文字が小さく消えていて読めない。


 青函連絡船見学のルートとなっている跨線橋で線路の西側に渡り、マリーナの横を通ってJR青森総合事務所の横に出て右折する。旧街道は駅前の曲尺手から駅を横断し現国道280号に接続していたようであるので、消失した旧街道ルートに近いと思われるこのルートを進み、青森市役所柳川庁舎前にでる。


 街道は直進していたのだが、左折して森林博物館を見ていく。日本三大美林の一つとされる青森ヒバについて展示してあるという。庭の隅に明治42年に外ヶ浜一帯に施設され青森ヒバの集積に運転されていた森林鉄道の車両が展示されている。扉の鍵が開いていたので真近でカメラに納めることができた。なお、青森ヒバとは檜のような葉をつけ、杉のように高く育つ木材のようである。


 川沿いに戻ってだいいちりんかい橋を渡り、右折して住宅地を回り込んで進み、右折して進むと沖館3丁目、すずらん調剤薬局前の国道280号にでる。


 街道はほぼ直線の道である。暫く進むと立体交叉点が見える手前の左手に小さなお堂が現れる。中は綺麗に飾られているがお地蔵様なのか百万遍供養塔なのか不明だった。


 新城川の橋を渡って進むと右手にお地蔵様とお堂が現れる。中には綺麗に飾られたお地蔵様と百万遍供養塔が祀られている。先に進むとまた道端にお堂が現れる。その先でも度々現れるのだが、どういうことがあってこのようなお堂が建てられたのかは不明だ。この地域の人は信心深いのだろうか。そのような疑問を口にしながら進んでいくと次の宿場である油川宿に入る。



(37野内宿) (39油川宿)

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