27:福岡(ふくおか)宿
・複数の追分石と神社、さらに九戸城跡が往時の面影をのこしている
・市浄水場横で街道は川を渡っていたのだが、今は馬場の交差点までもどるほかない
福岡(二戸)---八戸街道追分---浄水場---八坂神社---金田一 6.1km
2014年11月7日
久府坂を降りてくると街道は丁字路に突き当たり、福岡宿はここで右折する。その左手に二つの道標がある。「末の松山波打峠従是三十丁」という刀剣状の石碑と、「右浄法寺、左一戸道」と刻まれた追分石である。刀剣状の石碑は以前は右手角にあったものが移動されたようである。なお、久府坂は三戸から九戸城に南部信直の家臣団が移り住んだときに家臣たちが在府から帰る坂、在府に戻る坂ということから帰府坂(きふさか)と呼んだのがはじまりだとの案内もある。 |
右折して進むと左手に海鼠壁の蔵が現れる。その先には呑香(どんこう)稲荷神社の赤い鳥居が現れる。境内の左手には幕末に創設された私塾・会補社の講義が行われた神社の茶室が保存されている。 |
宿場内を進んでいくと右手に九戸城の案内が出でいるので右折する。暫く進んでいくと左手の崖の上に高台が現れる。そこが九戸城跡である。手前に城へのルートが書かれた案内があり、左手からのルートも紹介されているがそれは登頂不可能なルートた。何とか本丸跡にたどり着いたが、そこは広々とした敷地があるだけだった。ここは、秀吉に従わなかった九戸・南部政実の城があった所で、南部宗家・信直と豊臣秀次らの奥州仕置き軍5万5000が攻めたてた場所である。政実は最後に助命を条件にして降服したが打ち首となり、城内にいたものは全員惨殺されたといわれている。その後、南部信直がここ九戸城を居城とし、地名を二戸ではなく福岡に変えたとのことである。 |
宿場内を進んでいくと街道は今の岩谷橋の手前の十字路で左折し馬淵川沿いに下っていく。そこは馬助坂と呼ばれた道で、人足や馬喰が馬を助けながら昇り降りした坂道だ。しかし私には並の坂道のように思われたが。 |
その先に進み白鳥川に架かる橋を渡る。橋の右手には岩谷観音堂が見える。11面観音菩薩像と阿弥陀如来像の2体が納められ、百年に一度のご開帳とのことである。 |
坂を登っていくと県道の交差点にでるが、その右手に追分石が現れる。「右 もり岡 左 白とり」と刻んである。元は坂下の白鳥川に沿った白鳥道との追分にあったものだ。白鳥道は白鳥を経て九戸氏発祥の地、九戸村に通じる道である。 |
宿場内を暫く進んでいくと左手の村井ホテルの敷地の隅に「明治天皇御駐輦の地」の碑が現れる。宿場内には街道筋の趣のある家もある。 |
福岡宿を後にして街道を進み、堀野地区をに来ると右手に八戸街道の追分石が現れる。追分石には「八戸道 三戸道」と簡潔に刻まれている。八戸へはここから分岐していたのだ。 |
街道は馬場の交差点で直進して進み、県道の左斜めの細道へと入る。やがて市浄水場で行き止まりとなるが、往時はここらで馬淵川の対岸に渡っていたのだ。しかし今はその跡形がないので詳細は不明のようだ。馬淵川を渡るためにはもう一度馬場の交差点にもどり、長瀬橋を渡るしかないので急いでもどる。 |
長瀬橋を渡っているときに16時のチャイムが聞こえる。国道の右手を進むと馬淵川沿いの小道が現れたのでそこを進む。往時の街道と思われる浄水場の対岸の坂道を登り、国道四号線を横断して踏み切りを渡って右折する。左手には追分石があったのだが焦っていて見逃してしまった。辺りが薄暗くなってきたのでとにかく急ぐことにして歩く。 |
街道の両側には民家がならんでいる。暫く進むと左手に八坂神社の鳥居が現れる。そこを進んでいき、神社の本殿の前にでる。次に四戸城跡が裏手にあるということなので、裏手に行く道を捜して隣の寺のほうにいくと敷地の境に裏手にでる道があった。 |
裏手の道に出たら近くで農作業をしていた方がいたので尋ねると、もっと右手にいくと四戸城跡の石があると教えてくれた。急いでいくと四戸城跡の案内板と大きな石が現れた。案内板の文字はほとんど消えていたが、とにかくカメラに納めることができた。16時30分すぎ、辺りは大分暗くなってきた。街道にもどり急いで歩くが、ついに懐中電灯をつけないと地図が見えなくなった。金田一宿に入っているのだろうが夕闇の中なので先が見えない。とにかく歩き、踏み切りを渡り、駅前を右折して金田一ホテルへ何とかたどり着いた。17時30分前。 |