42:平舘(たいらだて)宿
・宿場の面影もなく民家が並んでいるが陣屋跡が漁港の先にある
・街道には台場跡、岩屋観音、高野崎、松陰くぐりと見るものがいろいろある
・石崎から先は山と海とに挟まれ地を縫うように進んでいく

 平舘---台場跡---岩屋観音---砂ヶ森---与茂内---今別 22.5km
 2015年11月6日





 8時に不老不死温泉を出発。ホテル近くに中学校があるのでここが陣屋跡なのかと思ってシャッターを押した(がそうではなく、平舘神社の先にあるおかりや跡がそれだと後からわかった)。街道にもどり昨日通過した平舘郵便局をカメラに納めて街道を進む。宿場内といっても特に往時をしのばせるものはない。


 街道を進んでいくと右手の海側に更に道があるのが見えるので行って見ると、松に囲まれた散歩道になっていた。暫くそこを歩いていくと漁港に出た。


 街道に戻ると地蔵堂が現れる。その先には平舘神社の鳥井が現れるが、そこは隣の福昌寺の参道でもあった。神社の桜の葉が綺麗に色づいている。


 街道を暫く進み、左手に入る道を進んでいき、国道の先にでるとそこが往時の陣屋跡であるおかりや公園だ。陣屋を地元では「おかりや」と呼んでいたとは知らなかった。お台場が構築された後、その管理のために設置されたということである。しかし、ホテルの近くの中学校が陣屋跡であると思っていたので、私は街道からはずれるおかりや公園をパスしてしまった。なんてこった、残念。街道を進むと松林がすばらしい津軽国定公園に入る。


 街道の左手にはオートキャンプ場がある。右手の海側には海水浴場があるのだが、”今は誰もいない海”となっている。カラスが暇そうにしていたが私が近づくと飛び立っていった。


 その先に進むとお台場跡が現れる。1847年に平舘に異国船が現れ8人が食料を求めて上陸した。このため幕府の命令で弘前藩は1849年に台場を構築し7台の大砲を設置した。大砲は土塁の間に設置し土塁には松を植えて海上からに見えにくいようにした、と案内板に解説してある。


 お台場の先には平館灯台がある。明治32年に設置され、昭和35年に改修されて今にいたっていると解説にある。また日本で初めて採用されたダイヤホーンの霧笛として大きなホーンスピーカーのようなものが展示されている。


 平館灯台を後にして街道を進む。すぐ右手には海が広がる。右手の防波堤にはこの道が以前国道280号であったことを示す標識が残っている。また、以前には何かが書かれていたのだろうが、今は何もかも消えた標柱も残っている。現在の国道280号との合流地点の手前の国道側には赤い鳥井の春日神社が見える。合流して暫く進むと石崎沢の集落だ。


 ここから先は左手は山、右手は海、その間のわずかな土地をぬってはしる街道を行く。風が冷たく手が痛いほどだ。用意した手袋をつける。季節はずれのタンポポが咲いているコンクリートの街道を進むと、弥蔵釜の集落に入る。左手の空き地には菊の花が今を盛りと咲いている。


 元宇田の集落に入ると左手に聞法寺が現れる。寺の前には日持上人と船頭の像がある。日持上人は1296年に蝦夷地に渡るために元宇田の30番神堂に祈願し無事に渡り法華経を布教した、と案内にある。集落内には人の住んでいない廃屋もあり、なかなか生活か厳しいようだ。この地での生活は私には想像もできない。


 海沿いの街道を進んでいくと海に突き出た岩上に木製の柱がたったいる。近づくことができないのでシャッターを押しておいた。平館村から今別町にはいる境界を示しているとのことだ。街道は人通りも車も少なく最北端のムードだ。


 前方に広重の薩垂峠の絵のような岩場が現れる。近づいてみると岩屋観音の場所だった。天然の岩洞に小さな祠が建てられ観世音菩薩が安置されているおり、1689年以前からあったそうである。津軽霊場33観音の21番札掛所とのことだ。現在はコンクリートの防波堤で守られているがそれ以前は大変なところだったんだろうな推測できる。


 その先は鬼泊トンネル潜って進む。トンネルができる以前は岩屋観音脇を進み岩場の突端を通過していた。殿様が通るときには岩と岩との間に板を渡していたという。トンネルを抜けて暫くすると左手にだるま滝が現れる。二段になっていてだるまの腹のようなのでこの名がついたのだろうが、水がすくない。


 暫く進むと奥平部の集落となる。左手に赤い鳥井が美しい稲荷神社が現れる。海側には往時の街道が残っているのでそこを進む。


 街道を進んでいくと砂ヶ森の集落となり、街道は左手に入り坂を登っていく。現在は岬の山を登っていく国道が開通しているが、往時はそこは難所だったようだ。坂を登り小学校跡前を通過して下っていくと左手に赤い社が現れる。その隣にベンガラの原料だった赤岩を掘り出していた坑道跡がある。ここのベンガラは日光東照宮や江戸城の修復にも使われたもので、この赤岩を守るために番所を置いていたとのことである。なお、「此谷の土石皆朱色なり。水の色までいと赤く、・・・此辺の海中の魚皆赤しと伝」と東遊記では荒唐無稽な紹介をしていると太宰は苦言を呈している。


 国道280号と合流して左折する。左手に三つの鳥井のある稲荷神社前を通過する。集落の外れで国道は岬を登っていく。往時の街道もそのようで、海側にいく道は行き止まりになっている。


 国道を進んでいくと高野崎の切り立った崖と赤い橋が架けられた岩場が現れる。よく見ると突端の岩場で釣りをしている人がいた。先に進むと崖の上に休憩場が広がり、その先に灯台がたっている。


 先に進むと、道路から少し入ったところに石垣があったのでそこでランチタイムとする。石垣に腰をおろしてホテルで作ってもらったおにぎりを頬ばりお茶を飲んで一休み。地蔵堂前を通過し袰月の集落に入る。郵便局の少し先の左手、鳥井の手前に伊能忠孝止宿の標柱がある。その先には進むと板塀のある旧家が現れる。


 袰月会館の前にくると高木恭造の詩碑が現れる。「陽コあだネ村」という詩が刻まれておりボタンを押すと大きな声で津軽方言の詩が朗読される。これにはチョット驚いた。会館前で作業をしている人にこの地の出身の方なんですかと伺ったら、「そうではなく、青森で教師をしていた人だ」ということだった。高木恭造の代表作ということだったが、当の地は陽があたっていたような。


 その先に進むと左手の小川の側に赤い橋、赤い鳥井、があり、その隣にほろつき海雲洞、海雲洞釈迦堂と看板が掛かっている。津軽三十三観音霊場第二十一番札所である。鳥井はどういう関係なのだろうか。


 その先へ進むと集落の外れとなり岬の上に登る国道と、海側を進む道とに分かれる。海側を進んでみるが行き止まりとなるので途中から左折して国道に抜ける。鋳釜崎の見晴台には吉田松陰の東北遊日記の一節を刻んだ碑がたっている。その先に進むとまた見晴台があるが、こちらは東家やトイレもあり正式なところのようだ。


 国道を進んでいくとY字路が現れるので右手に進み大泊の集落へといく。旧な坂道を下り集落内を通過する。集落の先に吉田松陰も通ったといういんくぐりという岩穴が海辺にある。集落の外れにそこにいく案内がないかと捜したがなかった(後から分かったことだが、民家の敷地を通過して行ったという記事があった)。


 結局、国道に合流して与茂内の集落まで行き、右折して海沿いに集落内を通過し、空家の庭も通過していんくぐり岩にでた。潮が満ちてきていて通ることはできない状態だった。


 与茂内浜を見ながら街道にもどる。昔の与茂内浜では帯留に使う美しい錦石がとれたそうだが今は廃業となっている。浜は波が荒く「どどどどっ」という唸りが時々聞こえる。中宇田川の橋を渡る辺りで左手をみると富士山のような秀麗な山が見える。坂道を登っていくとY字路が現れる。街道は右手に進み国道バイパスと分かれる。


 山崎の集落を通過して坂道を下っていくと集落の外れに地蔵堂と百万遍供養塔が現れる。海沿いの街道を進む。途中に駐車場とトイレがある。暫く進むと今別海岸の標識がたっている。その先は今別宿だ。



(41蟹田宿) (43今別宿)

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