30:五戸(ごのへ)宿
・代官所よりもそこで働いていた下役の江渡家のほうが立派だったとはどうしたことか
・八幡宮は立派な神社だが境内に三十三観音像や釈迦如来像などもあり神仏混合のまま残されたようだ

 五戸---八幡宮---後藤川---盲沼---伝法寺 6.8km
 2014年11月9日





 8時38分、旅館さくら屋を出発して昨夜迷ってしまった左への分岐地点に戻る。そこはY字路ではなく左折してから五戸宿へと向かうルートだった。五戸宿へと歩きはじめ、緩い坂道を下って行く。信号のある交差点を左折し、暫く進むと右折する路地が現れる。この角に天明年間(1781~89年)に飢餓救済事業の一環として建てられた江渡家住宅がある。茅葺き屋根の大きなつくりで、外には立派な門構えがついた家だ。とても五戸代官の下役を努めた御給人(在郷武士)の家とは思えない造りだった。


 元の街道にもどり進むと宿場に入り丁字路が現れる。そこを左折して進み右手の図書館前に行くと、その一角に代官所跡が現れる。先に見た江渡家の建物のほうがどちらかというと立派な感じがするのはどうしたことか。


 街道にもどり宿場内を進んでいくと、左手に下りの階段道が現れる。往時は階段道ではなく「サイトウ坂」と呼ばれた急坂だったとのことだ。階段道を降りて左折して五戸川を渡り、その先で左折して進む。街道は菊駒酒造の看板の前を通過して暫く進み、伝兵衛丁の丁字路で右折する。


 五戸宿を後にして暫く進むと右手に「明治天皇 田の草取天覧御聖跡」の碑が現れる。天皇にとってはマイナーな農作業である草取りなどは珍し光景だったのかもしれない。


 街道を進んでいくと五戸高校の裏の右手に八幡宮が現れる。イチイの木と三十三観音、菊女の供養塔が史跡だと案内板に記されている。捜したところ八幡宮の左手奥に二つの祠があり、左側の祠に石仏がならんでいる。たぶん菊女の供養塔は左側のものだろうか。五戸の代官木村秀晴が盛岡出張中に愛人菊が身籠っていたので処刑した。ところが同じ菊という名前の正妻がその愛人菊に同情して元禄6年(1693)に供養塔を建てたと由来が延べられている。隣の祠の石は?


 街道は登り坂となりY字路を右手に進み、斎場横を行くと突然丁字路となる。が、街道は直進する草道として残っている。そこを進んでいくと店(ローラン?)の裏にでる。そのままいけるのかと不安になり庭にいたご夫婦に尋ねると「そのままいけますよ」と言われ、「奥州街道を歩いているんですか」と尋ねられた。「そうです」と答えると「皆さん、よく歩いていますね」、「お気をつけて」と言われた。お礼を言って草道を通って国道にでる。


 歩道の無い国道は怖い。暫く進むと左手に後藤川を渡っていた街道が現れる。川岸に行ってみたがどこを渡っていたのかはっきりしない。対岸の国道との合流の手前には小さな祠がある。往時の街道は今の国道とは逆の蛇行をしていたとガイドブックにあるがその痕跡がないのでとりあえず国道を進むことにする。盲沼というバス停を過ぎると左手にマルゼン工業の整備された建物が現れる。その前に沼があるがそれが地名の名残なのかなと考えつつ進む。


 街道を進むと左手に伝法寺小学校が現れるが、どうやら廃校のようだ。校庭の横に街道の名残の金比羅碑があるというので校庭の隅をあるいてみたが発見できなかった。諦めようかと思ったが、引き返して林の中を歩いて探すと金比羅碑があった。跳び箱がわりのタイヤがならんだ側だった。また、国道側には鳥居があることから察するに街道側からの道があったが、国道の工事で削られて消失してしまったようだ。今でもお参りする人がいるようで徳利ビンが7本お供えされている。国道に降りて先に進むとY字路が現れるので街道は右手に進む。その先は伝法寺宿だ。



(29三戸宿) (31伝法寺宿)

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