33:七戸(しちのへ)宿
・盛岡藩直轄領となってからは代官所が置かれていた宿場だった
・中野の追分で本道ルートに進み往時の四つの一里塚を通過する難コースをたどる
・石文集落の先の山道は熊笹の藪と蓬の原で歩くのが困難となっている

 七戸---中野追分---天間館---蒼前平---坊ノ塚---野辺地 24.1km
 2015年5月26日、27日





 橋を渡って進むと右手に風情のある駒饅頭という和菓子屋が現れる。商店街を暫く進むと左手に格子戸が美しい醤油・味噌の山勇商店が現れる。今は商売をしていないようだが。その先に進む駒泉という造り酒屋が現れるが、ここも同じようだ。


 郵便局のある辻(十字路)の手前には風情のある二階建ての家がある。この辻を左手に進み、七戸役場前に行くと板張り洋風建築で国登録文化財となっている旧郵便局の建物がある。役場の裏手には七戸城跡があるのだが、時間がないのでパスすることにして辻にもどり郵便局の横を東に進む。


 暫く進むと青岩寺が現れる。この山門は七戸城の城門を移築したもので当時は二層の楼門だったが、大正末期に老朽化のため上層部と袖門を取り去り、今の形になったと解説されている。また寺の前にあった追分石が、今は境内に移されているのだが見落としてしまった。


 街道は七戸病院の角で左折して進み、通りを通過して丘の上の神社に出ていたようであるが、今はその道が消失している。そこで通りにでたら右折して森田旅館の前を通過し、その先で左折して路地を進み、途中で左折して丘の上にいく坂道を登る。坂の上の神社の所で左折して進むと丘の上の正一位和田稲荷大神という古びた神社にでる。社の前は草が茂りその先は急斜面となり道は消失。昔はなだらかに下がった坂道となっていたとのことである。


 坂の上の先程の神社にもどり左折して坂を下っていくと街道は旧国道と合流する。暫く進むと七戸東栄前というバス停が現れる。右手には廃屋となったパチンコ新幹線があるが、左手の米内山和菓子の店の看板の横に藪に埋もれそうになった天王一里塚跡の案内板が現れる。日本橋から174番目と記されている。和菓子屋の看板が大きすぎて目立たないがとにかくあってよかった。


 街道は真っ直ぐな道となりもくもくと進んでいくと消防署手前で国道四号線バイパスと合流する。その先に進むと左手の町立鷹山宇一美術館の横に、七戸~野辺地間の奥州街道の案内図が現れる。なお美術館には鷹山が収拾した奉納絵馬などが展示されており、この地方が往時には有名な馬産地であったことを示しているとのことである。その先に進むと新幹線の跨線橋となるので、今日のウオーキングはここで終了とする。七戸十和田駅の近くには宿が1軒しかなく、予約がとれなかったのでバスで十和田市街にもどる。


 翌27日、スマイルホテルを出てバスで七戸十和田駅に着き、イオンでトイレを借りて準備完了。大分遅れてしまったが10時30分に出発。街道にもどり新幹線の跨線橋を越えると、右手の営農大学校の前にも七戸~野辺地間の奥州街道の案内図が現れる。だが、なんか見ずらい感じがした。よくみると、美術館横のものとは違って右から左に進むように(野辺地が左に)描いてあるのだ。なぜなんだと疑問をもちつつ歩く。


 その先の車道の左手には松並木がつづき、往時の街道が歩道として残っている感じだ。トラックが爆走している国道四号線だが、しばし往時の街道気分にひたる。坂を下っていくと遠くに街道の分岐点、中野の追分が見えてくる。


 街道は宮沢医院前で二手に分かれる。右手に行くのが参勤交代で使われた公式ルート(本道)、左手は地元の人々が使っていた近道で、現国道四号線となっている。今の分岐点は現国道が直線になるように左に移動、修正されており、宮沢医院前でなくなっているが、以前の形跡が舗装道路跡として残っている。


 宮沢医院の前には、道標を兼ねた庚申碑があり、「右ハ野辺地本道」「左ハ同近道」と刻まれている。裏には「寛政九年」(1797年)とあるらしい。なお、追分の左手には往時の旅人の目印となっていた銀杏木がある。幹周9.4m、樹高17mといまでは大銀杏となっている。


 追分を右手の本道へと進み、暫くするとY字路となり左手に進む。すると天間館の一里塚が現れる。日本橋から175番目の塚である。左手の塚は塚木が成長しすぎて塚をのっとってしまっているかんじだ。対して右手は隣の雑木が伸びすぎてるようだが。左右とも塚が健在なのでなによりだ。


 街道は天間館の集落に入り突き当たりを右折する。その先で左手の路地にはいると、その突き当たり一帯が天間館氏の城があった跡といわれている。天間館氏は九戸の乱で九戸政実に加担して滅亡した。街道は集落内を右斜めに川岸に下っていたとのことでそれらしい道があったが突き詰めてはいない。もとの道にもどり坪川の橋を渡る。今の橋よりも下手に舟渡しがあったといわれている。


 街道は田圃の中の一本道を進むのだが、途中右手に入る農道があるのでこれを進む。往時の道が直線であるのはまれのはずなので。ガソリンスタンドと工藤組の間を進み天寿園の方向に進む。天寿園の先からは砂利道の農道となる。


 街道は現在の田圃を斜めに横断していたのだが、区画整理で消滅。直線で北西に走る農道に突き当たり、左折して進み、その先で右折し、次の舗装された農道を左折して暫く進む。田圃がきれ、取水口のあるところで右折して砂利道に入り左折。暫く進むと一本杉があり、切り株のある所にでる。時間もいいのでここで昼飯にする。定番のおにぎり、お茶、お菓子を食べて一休み。


 再び農道となった街道を進むと田圃に突き当たるので右折する。その先で左折して直線の農道を進む。が、樹木のある地帯が旧街道のように斜めに続いているのだがそこには道が続いてない。なぜあのように樹木が残っているのか疑問がわく。


 農道の先に赤白の鉄塔が見えて、右手に柵が現れる。柵の右手には周囲よりも一段低くなった街道とその先に一里塚が現れる。蒼前平(そうぜんたい)一里塚で左右とも健在だ。街道を先に進むと奥州本街道の碑と案内板とが現れる。藤原清衡の金箔の卒塔婆から一里塚を説いた案内板は近くにはないようだ。なお、すぐ隣には東北電力の大きな変電所がある。


 街道は舗装された農道を横切りって直進するが、100m位で藪に突き当たり左折して迂回する。川があって直進する道は消失してしまったようだ。大分回り込んで反対側にいきのぞいてみると、急勾配の土手となって道がなくなっている。田圃の脇道となった街道を進む。


 やがて舗装道路となった街道は石文集落を通過し青い森鉄道のトンネルを潜り抜ける。右折して県道8号線にでて左折して坂を登っていく。右手に山道が現れたので熊除けの鈴をならして山道に入る。人の歩いた形跡がまるっきり無いので一抹の不安がよぎる。


 民家の犬が吠えているのを聞きながら進んでいく。突然草が深くなり、目の前が藪となり道とは思えない状態となる。「ええ~!」。道を間違えているのかと思い、GPS地図をだして現在地を表示すると間違いなく山道の上にいる。いったん、戻ってみると左手に赤い鳥居があり、道は間違いないようだ。となると、この熊笹の藪を踏み越えていくしかないのかと思い、意を決して強行突破する。熊笹をかき分けて進んでいくと熊笹は背丈ほどになって行く手を阻む。前に進むしかない私は必死で踏みつけ、かき分け突き進んだ。100m格闘するとその先は草原道となり蓬の群生を踏み越えていくことになる。


 すると左から来る舗装道路にでる。地元の人は舗装道路を使用しているので街道だった山道は熊笹と蓬の群生に占領され、彼らの天下となってしまったようだ。200m位の道だが残念な思いだ。高原のような景色の中、舗装道路の街道を進む。民家がまばらに点在するだけの夫雑原を進んでいくと左手に小学校跡(生涯センター)が現れる。この辺りに一里塚があったらしいとのことなので捜してみたが発見ぎてなかった。なお、近くの林にはやたらと木に盛り土がしてあった。


 その先に進むと時折車が通る閑静な道となる。以前は人にも車にも会わなかったようだがそれに比べると今は車が多くなった感じだ。街道はやがて長者久保の集落を通過する。舗装された車道は右折するが、街道は直進して砂利道となるので熊除けの鈴をならしつつ進む。石文の山道のように藪になっているのではと心配になる。しかし、どこまで行っても砂利道なので安心して進める。


 街道を進んでいくと右手に坊ノ塚の一里塚が現れる。案内板には奥州街道に残された最北の一里塚であると記されている。道の側の塚は西の塚であり、東の塚はもっと先にある。塚のまん中には元の街道が通っているがどちらもすぐに道が消失していて進めない。昔の塚は藪の中にあったといわれているが、なぜ西に道が造られたのだろうかと疑問が残る。


 坂を下り始めると左手の草の中に東家が見える。「鳴子 このこ苑」という小公園だが草がのび放置されているようだ。その先には「坊ノ塚遺跡(鳴子館)」の標柱が立っているが木々が伸びて遠くの景色は何も見えない。以前は見晴らしがよかったらしいのだが。


 坂を下っていくと車道を渡る新鳴子坂橋と鳴子坂橋を通過する。鳴子坂橋の袂には鳴子坂橋の案内板があり、平安から鎌倉時代にかけて、この付近には先人が集落をなして生活しており、一帯は鳴子館と言われていた。また、野辺地の入口にあたるこの坂を鳴子館坂と呼んでいた、とある。また、藩政時代には幕府や藩の要人の送迎に、宿場の主だった人たちがこの付近まできたとのことである。


 街道は鳴子館坂を下り、坂の上の県道246号を横断して野辺地の集落に入る。坂の上にでるためには左カーブする緩やかな坂道を登る道もあるが、往時の道は最短の階段を登っていく道のようである。階段上の扉は自分で開け、閉じることが必要だ。県道を横断して斜め左にいくと、その先は野辺地宿である。



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