25:沼宮内(ぬまくない)宿
・寄寿姫の像、沼宮内代官所跡、曲尺手跡など往時の面影も残っている
・御堂観音から小繋までは高原のハンキングのようないいコースだ
・川底一里塚のコースは山道のままで往時の街道そのままのようだ

 沼宮内---馬羽松塚---小繋塚---川底塚---野中塚---一戸 32.3km
 2014年6月23日、2014年11月7日、2016年10月31日





 ガイドブックでは正面に愛宕神社の鳥居見つつ県道を進んでいくのだが、地図を良くみると鉄道を渡った先で左手の路地を進むのが往時の街道のようである。その先で県道と合流して街道を進んでいくと、左手に大きな会館のような造りの建物が現れる。ここは上路旅館というしにせ旅館だったところで、二階のガラス窓の繊細な造りがそれを漂わせている。


 街道は突然、直線の大道となる。沼宮内宿の繁華街だ。街道筋の面影はなく現代的な町並みが続いている。暫く進むと右手の山見の里・よりーじゅの前に寄寿姫(よりじゅひめ)の像が現れる。沼宮内の伝説によるならば、長者の娘で、大蛇から村を救うために人身御供となったとのことである。


 その先の信号で右折して進むと、沼宮内小学校前に出る。そこは北岩手郡の中心であった南部盛岡藩の沼宮内代官所跡である。学校の正門横にその案内板ある。当日は小学生たちのサーカークラブの試合が校庭であり応援の親たちの車で門前は占め、カメラに納めるのに苦労した。


 街道にもどり先に進むと曲尺手跡にでる。街道はゆるいカーブに修正され左手の三角州は花壇となって生かされている。その先の丁字路を右折すると沼宮内城跡にいくのだが街道から外れるので探訪を省略。先に進むと沼宮内新町のバス停が現れる。この先に新町一里塚があったのだが跡形も無くなっている。


 沼宮内宿を後にして街道は北上川に架かる橋の袂で右折し、川沿いに進む。金毘羅と刻まれた金毘羅宮神社の石板が現れる。車道を越えて民部田集落に入る。車の無い街道は歩きやすいが炎天下できつい。丁度いい所に自販機があり冷水を補給。


 街道は再びトラックなどが爆走する国道四号線と合流。新幹線のガード下を通過し、暫く進むと踏み切りがあり右折して川原木集落に入る。集落は線路づたいに伸びているのだが国道からの口は1カ所しかない。集落の十字路の近くで座り込んでいた二人のおばあさんに聞くと、「昔は集落の端に踏み切りがそれぞれあり、集落内のこの通りが国道だった。しかし今の国道ができたときに踏み切りを一つにしてしまったんだ」と教えてくれた。ついでに、この道を先にいくと御堂の駅にでますかねと尋ねたら「いったことが無いからわからない」との答えだった。


 教えてもらったお礼をおばあさんに言って御堂に向かって先に進む。集落の外れの右手には、無理に線路を渡って歩いた跡があったが強引なルール無視は控えて農道をそのまま駅に向かうことにする。


 駅の裏手につくと誰かが歩いた跡が草原に残されていたのでそこを進む。すると下りホームに出た。「ええ~」と驚き、感激してシャッターを押しておいた。15時55分、御堂駅到。駅待合室に行くと駅は無人でおばさんが一人と高校生が一人いた。今日の工程はここまでなので一休みして登りの電車で沼宮内へもどり、駅前の笹相旅館に泊まる。しかし沼宮内駅ではキセルを疑われ、旅館では3時間も待たされるという大ハプニングに巻き込まれてしまったがそれは省略。


 6月23日、9時43分発の下り銀河鉄道に乗り御堂駅で降りる。なぜか9時前後の電車が走っていないのだ。炎天下の国道四号線をもくもくと歩く。ここまで来ると北上川は水田を潤す小川となっないる。


 北上川の源泉の道路標識が掲げられ、北上川源流公園の看板のあるY字路が現れる。街道は右手の川沿いの道である。国道四号線と分かれ静かな登り坂の道と進む。暫く進むと丁字路となり左折する。


 暫く進むと突然左手に御堂観音が現れる。もっと先だと思っていたのだが、意外にも近かった。山門をくぐり階段を登っていくと、その先の境内に観音堂があり、その右手に北上川の源流といわれる弓弭(ゆはず)の泉が現れる。その側には杉の巨木があるが、途中から上は枯れてしまったようだ。


 観音堂は坂上田村麻呂が祈願所として開基し源義家が堂を建立したと言われている。また弓弭の泉は、1057年の安倍一族と源頼義・義家らの朝廷軍との戦いの折、源義家が打続く炎暑に対処するため大杉の根本の岩を弓弭で突いたところ清水が湧き出たところと言われる。しかし、厨川柵(盛岡)での戦い以前に遥かに遠い山奥まで義家が来るわけがないと私には思えたが・・・・。観音堂を出ようとしたら「奥州街道を歩かれるんですか」とおばさんに聞かれた。「そうです」と答えると、「今日は3人目ですね」と言われた。私の前を2人歩いているのか、どこかで会うのかなと楽しみにして先に進む。


 緩やかな登り坂の街道を進んでいくと御堂・馬羽松の一里塚が現れる。左右ともに一里塚は健在だ。盛岡から10番目の一里塚とのことである。右手に一里塚の案内板があり、接近して一里塚をみたので当初は土手としか見えず、この先にあるのかなと進んだが見当たらず、振り返って発見した次第であった。あぶない、あぶない。


 その先に進むと馬羽松集落に入る。ここでは野菜畑が広がっていたので作業中の農家の方に聞くとレタスを栽培しているとのことだった。畑のレタスを見たことがなかったのでカメラに納めてみた。これから玉になるのだろうか。


 次に摺糠の集落では街道脇の家の花がきれいに咲いている。神社の前を右折して進み、その先の自販機のところで左折し舗装なしの山道へと入る。途中、農道の別れ道があるが直線して進んでいく。


 暫く進むと右手に道標があり、旧中山一里塚までは1.4kmだと示されている。反対側には明治天皇御休憩止跡の石碑が建っている。その先に進むと広場のような明るい場所に出る。山の中の交差点だ。その先には奥州街道最高地点の標識があり、標高484mと記されている。たいして登っていないことを確認して先にすすむ。


 見晴らしのいい街道を進んでいくと左手に東屋が現れる。丁度昼時なので日陰もあり、ここでランチタイムにする。高原を渡る風を感じながら旅館で造ってもらったおにぎりを頬張りお茶を飲む。「なんて美味いんだ」と”贅沢な食事”に一人満悦する。東屋から畑越しに、これまでの道から離れた左手に一里塚らしきものが見える。


 食事を終えると休憩中に目星をつけた一里塚らしき所に畑の道を歩いていく。近づくとビンゴ、やっぱり中山一里塚だった。往時は、今は畑となっているところにこの一里塚の位置にあうように街道がはしっていたのだろうと思いを馳せてみる。先達が見過ごしてしまったりした一里塚があっさり見つかって一安心する。それにしても一里塚に所有者名が記されているとはチョット驚きだ。


 その先の中山の十字路を左折してみると青面金剛像塔とその案内板が現れる。この像は長寿を祈願する庚申信仰の塔で、1775年に祀られたとのことである。


 街道をもくもくと進むとやがて火行(ひぎょう)集落が現れる。集落の半ばに火行伝馬所跡の案内板がある。江戸時代、公用通行のための伝馬所が置かれていたとの解説がある。火行付近は明治になっても「山又山の果てしなき地」といわれていた地域である。


 火行集落をぬけて進むと十字路が現れる。街道は直進して進む舗装されていない草道のよの坂となる。左手には案内板があり、「奥州街道のなかでもかなりの難所」であるとある。また「周囲には一軒の家も樹木もないさびしい道」だったとも脅している。用意した熊よけの鈴をならして夏草が伸びきった坂道を降りていく。道はぬかるんでいるので靴跡や四輪車の轍も残っている。最近誰かが歩いたようだと一安心しつつも、鬱蒼として静まりかえっていることに不安を抱えて進む。


 大分歩いたのでそろそろ一里塚があるのだがと気にしていると、右手に小繋一里塚の道標があり、左手には一里塚と案内板が現れる。盛岡から12番目の一里塚で、西塚のみ現存しているとある。良く見るとよの坂の道ともうひとつの道の合流点の横に造られているようでもあるが気のせいだろうか。その先に進むと左手からの道と合流する。左手に道標があるのだがその道については何も記されていない。


 やがて街道は農道となり小繋集落に入る。小川を渡った先、左手に小繋番所跡の案内板が現れる。ここの番所は「領内の物資と交通を監視する役割を果たしていた」とある。街道は突き当たりの丁字路を右折して進む。


 すると左手に坂上田村麻呂の建立とされる長楽寺の地蔵堂が現れる。寺は江戸勤番往路の際には本陣ともなっていたのであるが、明治、大正の大火で全焼しわずかに地蔵尊を残すのみとなったと案内板に解説してある。街道は銀河鉄道の踏み切りを越え、国道四号線に合流し右折して進む。


 国道はほぼ直線なのでトラックが爆走する。国道の左手に小繋川の蛇行で残った街道が通っている。笹目子トンネルの手前の街道は行き止まりになっている。トンネルの手前で国道とわかれ右折した道を進む。銀河鉄道の下を通過していく。(2016年10月31日)


 小繋川が左手下を流れている。街道は川の左手に沿って通っていたので川岸を良く見ると丸石を積んだ石垣が見える。その上は平坦な様子で歩けるかのようだ。街道の残りかもしれないと思いながら進んでいくと川と交叉する。そこはコンクリートの護岸工事がされていたので歩けるようだ。保線用の階段の先で再び川と交叉する。その手前で街道は左手に登っていったようだが、線路敷設で跡形もなく消滅している。(2016年10月31日)


 再び銀河鉄道の下を通過して左手にでる。そして左折して下り橋を渡り民家の前を通過して国道にでる。しかしこの橋にはロープが張ってあって通行を阻んでいる。番犬もいて私が通ると吠えて威嚇してきた。私設の道路と橋だといっているかのようだがどこにも「私道だから通るな」との指示がない。どうなっているのだろう? 先達も苦労してここを通過したようだ。


 国道四号線にでてトンネルにもどっていくと左手に手製の奥州街道川底一里塚入り口の道標が出ている。「ありがたい」と感謝して早速指示されたトンネル横の小道を登っていく。すると奥州街道の道標がありその横に小繋側は「鉄道により遮断され通行できません」と指示されている。行ってみると草が繁っていて進めないので、引き返して一里塚に向かう。


 街道は整備されていて歩きやすい。暫く進むと川底一里塚が現れる。左右とも健在だ。ここは盛岡から13番目の塚だと案内板に記されている。道なき道を登っていって一里塚にたどり着いた先達のHPを見たが、今は随分と整備されているなと感じた。先達に感謝だ。


 山道を昇り降りしていくとやがて舗装道路にでる。そこの案内板には「奥州街道中もっとも険しい道」がこの「笹目子と高屋敷を結ぶ川底の道」であり、「小繋川を見下ろし左岸の急峻な斜面に沿って進む上り下りの厳しい難所」だったと紹介している。そんな難所を歩けなかったのは残念だったな思う。その先に進むと高屋敷の集落に入る。ここは往時には馬継所があったと案内板には記されている。その先からは砂利道となり歩きにくい道となる。


 街道を進んでいくと奥州街道の道標が現れる。その先進んでいくと五月舘の追分石の案内板が現れる。街道の左手の土手の上にその追分石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。一戸方面からきた旅人に対する道しるべで、盛岡方面は左の道だと告げているものだ。


 砂利道を下っていくと自動車道が現れたので国道四号線と合流するものと思い左に登っていったが合流しない。「あれれ」とパニクって資料をみると国道との合流前にバイパスのトンネルをくぐると書いてあった。国土地理院の地図にはバイパスが載ってないのだ。「なんてこった」と急いでもどり、トンネルをくぐった進むと小鳥谷集落に入る。すぐ左手に大きな屋敷が現れる。由緒ある家なのかと見ていたら「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っている。なるほどなと納得して先に進む。


 暫く進むと国道四号線と合流する。宿場のように続く集落内を進み小鳥谷駅入口の案内を見つける。16時20分、小鳥谷到着だ。御堂からの山越え、熊が出そうなよの坂通過、道がはっきりしない川底の通過、と不安がいっぱいだったが何とか無事に通過してきたことにホッとし満足する。そういえば誰にも会わなかったなと観音堂のおばさんを思いだす。銀河鉄道の乗客は二人だけだったが車内には結構お客さんがいた。これから何回乗るのだろうと車内を眺めつつ盛岡へと向かう。


 2014年11月7日8時8分、二戸宿の山和旅館を出発し二戸駅から小鳥谷駅に向かう。9時10分、小鳥谷駅を出発し一戸宿へ向かう。街道はなぜか真っ直ぐな一本道だ。暫く進むと、県道との交差点の手前、左手に野中一里塚跡の案内板と馬頭観世音が現れる。そこにあった太い松と檜はつい最近切られてしまったようで真新しい切り株が顔を出していた。


 街道は小鳥谷バイパスに接続しないで10m手前で工事中、今だに立入禁止となっている。左手に迂回路があるので、そこを進みバイパスを横断して川沿いの道を進む。直線の道を進むとやがて右に急角度でターンして坂をのぼり小姓堂集落を通過していく。途中、紅葉が程よく色づいていたのでシャッターを押しておいた。


 集落を通過して暫く進むと駕籠立場所碑と明治天皇御野立所碑が左手に現れる。往時には茶店でもあったのかもしれない。私もお茶を飲んですぐに出発だ。暫く歩くと、女鹿口集落の丁字路にでる。ここを左折して進み、坂の登っていくと舗装道路と分かれる道が右手に現れる。そこには荷坂の道標がある。街道はこの荷坂を進んでいく。


 小高い箇所に着くと老ヶ館の道標が現れる。ここからは道標の百姓一揆集結地の案内に従って右手に下っていく。Y字路が現れるが道がはっきりしている右手に進む(本来の街道は左手に進むようだ)。すると今にも消えそうになった白子坂の道標が現れる。坂道で土を見ると確かに白い土だ。多分に砂の体積した土なのだろう。 坂を下っていくと展望が開け、百姓一揆集結の地の碑と案内板が現れる。1836年、凶作に苦しんだ百姓達がここに集結して一揆をおこし、一戸へ向かったが暴徒化して失敗。首謀者の三名は関屋川原で打ち首になったとある。当時は大変だったんだなと思いをはせ、合掌!


 坂を下り線路下のトンネルを潜り抜けると県道にでるので左折。遠くに色づいた山々を見つつ馬淵川沿いの県道を進む。右手に橋を見つつ暫く進むと、右手に路地が現れるので街道はここで右折する。民家の中を暫く進むと左手の民家の横にに諏訪野一里塚跡の案内板が現れる。塚は消失しているが案内板があるだけでもうれしいものだ。


 先に進むと十字路となり直進して進む。往時は右手の川沿いに道があったらしいのだが今は無い。やがて一戸駅前にでるので右折して県道を進む。その先は一戸宿だ。



(24渋民宿) (26一戸宿)

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