14:一関(いちのせき)宿
・旧蹟はいくつかあるが街並みは現代化しており街道筋の風情はない
・芭蕉と曾良が宿泊した金森家は奥州路で最北の宿といわれている

 一関---磐井川---山目 2km
 2010年10月8日





 宿場に入る前に新大町の交差点で左折して一関城跡である釣山公園に向かう。1682年、伊達家分家の田村氏が入部して一関藩3万石を開いた。中世には葛西家小野寺氏が城を構えていたが、徳川幕府は田村氏に城構えを許さなかったため、城山の北側、今の裁判所付近に屋敷を構えて住んでいたとのことである。市中が見渡せる公園の丘に登り、ランチタイムにする。市内を一望しつつおにぎりを頬張って暫しの休憩をとる。


 公園をおりて街道に戻る前に、幕末に家老職を勤めていた沼田家を探訪してみる。まず、白壁塀と門が現れ、門を潜って中に入ると茅葺き屋根の母屋と整備された庭がある。しかし家老職の家としては意外と質素だったんだなと思えた。


 駅前の街道に戻り駅前の交差点を駅側に少し入るとそこには「芭蕉辻」碑と「日本の道百選 ”奥の細道”」碑が立っている。「芭蕉の足跡を後世に残すため」と刻まれている。芭蕉もこの辻を通過して行ったのだろうなと思いつつシャッターを押してみた。そこは昨夜宿泊した田中屋旅館の直ぐ傍だった。


 交差点の先は大町となる。先に進むと「大町の由来」という石碑があり「徳川時代の初期から宿場町として栄えて来たところです。その時代は仙台藩主・伊達政宗一門・留守政景が一関城主となり中心街を「大町」と名付け、以来、暦代の一関藩主田村氏に引継がれ今日に至っております」と記してある。しかし街並みは現代化され街道筋の面影はない。


 左手に一関信用金庫が現れるとその先の交差点を左折し地主町に入る。道標が木陰に隠れてしまっていた。地主町を暫く進んでいくと左手のビルの横に豪商菅原屋跡の石碑が現れる。大飢饉の際、私財を投じて難民を救済し、人々から救世商人と敬われ、この小路が「菅原横丁」と呼ばれるようになったと記してある。


 先に進み、川の手前100m位のところで左折して進むと酒の民族博物館が現れる。世喜の一酒造の酒蔵を活用したもので、この酒造家には幸田露伴や島崎藤村なども滞在したとのことである。


 磐井川の手前に来ると左手に芭蕉二夜庵跡の碑が現れる。ここは1689年5月12日、13日と芭蕉たちが平泉探訪のために宿泊した金森家の場所である。現在の金森家は工事中だったので建物そのものは不明である。


 街道は磐井川に架かる橋を渡り、右折して進み一関宿を後にする。その先でY字路となるが左手に進み、やがて車道と合流する。暫く進んでいくとその先は山目宿となる。



(13有壁宿) (15山目宿)

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